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私的受験勉強論 -大事な考え方を失わないために編-

私は、今まで受験勉強を3回経験してきました。

大学受験、高校受験、中学受験です。

子供が大人に成長して行く過程で、受験は間違いなく子供のターニングポイントになる可能性が高いイベントだと思います。

だけど、私自身はその大事なターニングポイントで、本当に考えておくべきことがなかなか考えられてなかったんじゃないか、とたまーに後悔しています。

自分は今子供を育てている立場にあるんですが、その時、受験というターニングポイントを迎えるにあたって、自分の経験をきちんと伝えておきたいな、と思って。

なので、ちょっとずつ、受験について思うことを書いていきたいなと思います。

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大人になって、会社に入ったとき、そこそこ名の知れた高校に通って、そこそこ名の知れた大学を出ていると、恐らく周りの人は、「こいつは優秀な奴だ」という目で見てきます。

で、社会に出た時の「優秀か、優秀じゃないか」の判断ってどういうもので行われるのかというと、少なくとも私の経験の中では、「その人に負荷をかけてリクエストを求めた時、期待通りもしくはそれに近いアウトプットを出してくれる人」というように見られることが多いような気がします。

なんでそう思われるのかというと、「受験勉強という苦行に耐えて、一定の成果を出した経験があるから」ですね。

当の本人からしてみたら、本当はやりたくないこと、なんだけど、将来の自分にとって有益な(と思われる)ことであれば、目先の楽しみを後回しにして、歯を食いしばれる人、みたいな。


ただ、少なくとも私の場合は違ったんですね。

私は小学生の頃から進学塾に通って勉強をしていましたが、それは、親から強制されてイヤイヤ行っていたわけではなく、純粋に、問題を出されて解く、という行為が楽しかったからなんですね。これはもう、ゲームと一緒です。

算数とか数学って、パズルの一種みたいなものなので、問題の中の謎を探して、鍵を見つけて、扉を開けてしまえば、それで勝ちなので。

その一連の行為がすごい楽しかったからやってただけなんです。

理科もそう、社会もそう。クイズの一種で、たくさんのことを暗記して、出された問題に対して、自分の引き出しの中を探し、「これだ!」と見つけたものを書く。

それがただ楽しかっただけ。


別に、苦しいことをイヤイヤやってるわけでも、それが将来の自分の役にたつから、とでも思ったわけでもなく。

だから、私だって、嫌なことをやれと言われれば、嫌なんですよね。やりたくない。

当たり前のことなのに、なんで、そこそこの大学を出ている人は、苦しいことにも頑張って立ち向かえる、と思われているのかよくわかんないんです。

それなのに、嫌なこと、負荷をたくさんかけられてしまう状況にはちょっと不満を持っていて。

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私は、そういう感じで、問題を解く、ということには快感を得ていたんですけど、

その代わり、「自分はどうしたいのか」とか「自分は何がしたいのか」と考えることはおろそかになっていた気がするんです。

答えがある問題を解くのは得意だけど、答えがない問題を解くのは苦手、みたいな。

目の前に答えがないと、解いた時に得られる快感も無いので、そもそも答えがない問題を解く気がしない、みたいな。


ただ、こういう、私が受けてきたような詰め込み教育って、このご時世、どんどん価値が下がっていて。

PCやAIの普及で、人間がいろんなことを覚えることや、答えがある問題を解くことはどんどん機械にアウトソースされる世の中なので。

機械に打ち勝つ人間になるには、「自分はどうしたいのか」という主体性を養うことが何よりも大事な気がするんですよね。

多分、そういう主体性が強い人間になれば、苦しいことがあったとしても、立ち向かえる強い人になれると思うんです。


受験勉強をして、そこそこの大学やそこそこの高校を出れば、そういう主体性の強い人にはたくさん出会えます。

ただ、そういう学校に行きたいがために、主体性の無い人間になってはいけないので。

受験勉強をするより以前に、自分の子供には、自分はどうしたいのかをしっかり考えて、意思表示できる人になってほしいな、と思っています。

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