見出し画像

あなたはなぜ「それ」をやるのか

純陽棍をきちんとやったことがなかったので、一からやり直している。

套路を一通り覚えるには、少なくとも私は、細切れにやってたらだめ。まとまった時間を作り、一気に徹底的にやり込まないと全体が掴めない。

灼熱の公園にて、なんとか一通り純陽棍の全套を把握した😓

純陽棍には多彩な技があり、やりこなすのは簡単ではない。
「今の私」だからできた、という側面がある。

「今の私」はどういう私かというと、「套路を追うのをやめている」。

表演大会には、おそらくもう出ない。
私のめざす方向性ではなくなってきた。
(表演大会を否定するものではありません)

表演大会出場をやめた今のほうが、よっぽど套路の練習をやっている😅
「大会に出るために」という認識が消えると、逆に套路のことがよくわかる。
「妙味の深さ」だけを追っているからか。

棍とコミュニケーションする。
「違う、そうじゃない。もっとこっちの都合を聞いてくれ」と棍が言っている。

こちらの都合を押しつけず、相手の都合に合わせてあげなくてはならない。
棍を回そうとするなら、「棍のほうが回ろうとする」まで、ちゃんと待ってあげなくてはならない。

実際には棍以外でも、刀でもナイフでも同じ。
「もの」の都合を聞かなければならない。

さらに言えば、「棍」も「自分の骨」も大差ない。
自分の骨を扱うように棍を扱う。
あるいは、棍を扱うように自分の骨を扱う。

こうした掘り下げは、やはり「せっつかれない」からできる。
少なくとも私は、「大会に出るために」といった認識を持ってしまうと、こういう方向に目が向かない。

繰り返すようだが、私は表演大会や、そこに向けてがんばる方々を決して否定しない。
むしろ、ああしたプレッシャーのかかる場で実力を出せるのはすごいことだ。素直に称賛する。

ただ、「大会こそがすべて」のように言われてしまうと、「それはちょっとちがうなぁ…」という思いを禁じ得ない。

オリンピックもあと3日。
コロナ禍のことは一旦置いて評価するとしても、やはり私は「それはちょっとちがうなぁ…」と感じている。

メダル、メダル、メダル。

もちろん、メダルを取った選手本人はすごい。
しかし、選手以外の人が「メダルがすべて」のような態度を取るのは、違和感を感じる。

もし五輪というものがなかったら。
もしメダルというものがなかったら。
その競技は、選手、関係者、特に為政者にとって、どういう意味を持つのか?

五輪がなくても、メダルがなくても、関心を持ったかね?

まあ「武術」というものは決して五輪競技になったりしないので、私には無縁な悩みだが😌

この記事が参加している募集

最近の学び

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?