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『感情の向こうがわ』を読んで

光岡英稔・名越康文共著 #感情の向こうがわ 読了。 

せっかくこの“稀書”を読んだのだから何か書いておきたい…と思ったが、初手から困った。
 「政治家アカウント」で書こうか「武術家アカウント」で書こうか困った、のだ。 

武術家などと名乗っても、私では到底光岡英稔先生を論評などできはしない。

逆に言うと、光岡英稔先生からある程度学び続けた者からすれば、ここに書かれていることは「いつもの光岡先生の稽古」そのものである。 

だから、光岡先生の稽古を受けた者ならば
①本書を読む 
②稽古する 
③①に戻る 
で、話は終わりだ^^; 

私が本書について何か語ることができるとするならば、本書にて触れられている政治的・社会的側面についてである。

そのため、本書について書くのはむしろ政治家アカウントのほうがよいのではないか…とも思ったのだが、そもそも政治家アカウントと武術家アカウントを分けたのは、読む方が混乱しないようにするためだ。
本書についての所感を政治家アカウントに書いたら、私をいち板橋区議会議員として見ている方はまず混乱する。(というか、黙殺されてしまうかもしれない^^;)

なので、若干筋違いかもしれないと思いつつ、武術家アカウントのほうで、本書の政治的・社会的側面について少し書いてみたい。

折りしも、社会がさらなる激動に包まれているこのときである。 
安倍晋三元首相銃撃事件は、光岡先生が本書でも述べているところの「マトリックス化された現代社会」の重症具合をさらに示すところとなった。 

要人警護という場面において、なぜSPが誰も背後を警戒していなかったのかという指摘が各方面からなされているが、その要因として「物理的攻撃よりも『聴衆からのヤジ』のほうを警戒していたからではないか」という意見もあり、これはあり得る…と唸ったところである。 
まさに「マトリックス世界の要人警護」である。

また「カルト」についても再び検証の目が向くこととなった。 

私は、自分自身で十分調査していない現在進行形の案件について言及することは避けるが、一般論として論じる。 
ここでいう「カルト」とは、人権侵害や反社会的行為に及ぶ思想集団と定義しておく。

なぜ、人はカルトに騙されるのか。 
それは、ホモ・サピエンスに特有の「神を理解する能力」を悪用しているからだ。

ホモ・サピエンスが生存競争に打ち勝ちここまで繁栄できた理由のひとつが「神を理解する能力」を有するためだ。
この能力により、ホモ・サピエンスは何万、何十万、いや何億もの人間が協力できる。

生きた年代が重なるネアンデルタール人はこの能力を有さなかったため、協力できる人数に限りがあった。 
このためホモ・サピエンスとの生存競争に破れたと言われる。

つまり「神を理解する能力」は人間の成功体験につながっており、ホモ・サピエンスである私たちは、できるだけ「神を理解する能力」を活用したい、と望んでいるのである。 

そこに、カルトがつけ込む隙ができる。 

「神を理解する能力」を誤認させ、「我こそは神なり」とのマトリックスを吹き込むのだ。

恐ろしいのは、「言葉」のレベルにおいては、カルトの放つ言葉の真偽は検証不能であることだ。 
例えば本書で語られる仏教の言葉と、カルトの放つ言葉は、字面では大して変わらない。

さらに言えば、おそらく光岡先生は自覚されていると思うので失礼を承知で書くが、光岡先生が本書で語る様々な言葉と、カルトの放つ言葉は、ぶっちゃけ「紙一重」である。 

光岡先生はときたま「私が新興宗教を作ろうと思ったら、たぶんすぐ作れるけどね」と冗談をおっしゃるが、冗談に留めてくれているおかげで世界は助かっているのかもしれない^^; 

まあともあれ、私が指摘したいのは、ここに「言葉」の問題がある、ということだ。 

本書に沿って述べるなら、実在する「事」「物」から導き出される言葉と、それっぽいが実在とは呼べないカルトの言葉は、「言葉になった途端に区別できなくなる」 という大きな問題を抱えている。

言語学チックに言うなら「シニフィアン」と「シニフィエ」の関係性の危うさから来る言語の限界、ということだ。 

本書が「本当のことを言っているかどうか」を検証するのは簡単だ。 
光岡英稔先生の稽古を実際に受ければよい。

しかし、カルトの放つ言葉を検証するのは困難だ。 
検証しようとする行為自体が危険であるとすら言える。 

さらに言えば「カルト」をもっと拡大解釈したらどうなるか。 

21世紀になってピョートル大帝を持ち出し、マスコミを掌握してプロパガンダを繰り返し、隣国に攻め込んで何万もの死者を出し、占領地で虐殺・拷問・レイプ・強制連行とあらゆる暴虐をはたらいている某国は、カルトの定義である「人権侵害・反社会的行為に及ぶ思想集団」といかなる違いがあるか? 

こう考えると、末席とはいえ、政治に携わる者として責任を感じずにはいられない。 
政治は「神を理解する能力」を利用して行われているのである。

幾億もの墓標を築いた末、人類は「人権」と「民主主義」というデウス・エクス・マキナ(機械仕掛けの神)を発明した。 

この「神」が今までの神と決定的に違うのは、すべての人間が「この神は自分たちでつくったものだ」とわかっている点だ。 
だから、弱い。
 「我こそは真の神なり」と名乗る者に弱い。

偽神とわかっていようとも、この「人権」「民主主義」を維持しなければならない。 
それが、幾億もの墓標の下、地の底からの叫び声である。 
まさにチャーチルの名言のとおりである。 

民主主義は最悪の政治形態だ。
ただし、これまでに試されたすべての政治形態を別にすれば、だが。
ウィンストン・チャーチル

まさしくバーチャル化、マトリックス化されたこの世界に、どうあれ実在の生命の生殺与奪が握られているのである。

私にできることは少ない。 
しかし、目の前に助けを求めて伸ばされる手があるなら、それに対して何もせずにいることは、理屈抜きにできない。 
家族や友人が目の前でハックされてエージェント・スミスに変えられたら、理屈抜きに怒り、なんとしても取り戻そうとするだろう。

まあ、だもんで、私は、マトリックスだろうがなんだろうが、生命が現実のものである以上、多少なりともマシな未来にするべく働く人間であるようだ。

こんなような「照らし身」として使えるのが本書だ、というように私には感じられた。 

皆様は、この書からいかなる「己」が観えるか。 
ぜひ、ご一読を。

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