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私たちはどう「歩む」か--甲野善紀先生・光岡英稔先生コラボ講座に参加して

少し前の話になってしまうが、甲野善紀先生と光岡英稔先生によるコラボ講座「国井善弥の身体観を学ぶ会」に参加した。

この二大巨頭の先生から“今武蔵”国井善弥の剣術について親しく学べるという、いわばダイヤの原石つかみ取り状態の講座で、7時間という時間があっという間に過ぎていった。

甲野先生と光岡先生には、このような貴重な機会を設けていただいたことに心より感謝申し上げます。

さて、この講座では本当にダイヤの原石をガッポリつかませていただいたので、どのダイヤを磨いたものか仕分けするだけでも大変で、未だに言葉にするのが難しい。

その中でも少しでも言葉に残しておきたく、とりあえず「ソの字立ち」について書いておく。

ソの字立ちは鹿島神流の基本的な立ち方で、前後に開いた足の先を外側に開き、カタカナの「ソ」の字のような形を取る立ち方である。

この立ち方は、以前から私が疑問に思っていた

「足は開いているか、閉じているか」

というテーマに、また一石を投じるものだった。

一例を示せば、形意拳では、前に出している足は閉じている。
劈拳の際にはわざわざ「足を開ける」わけだから、その前の三体式の状態では閉じていると言える。

また、空手の三戦なども足が閉じている。
三戦はまさに「ソの字立ち」の逆で、「ハの字立ち」と言える。

足が閉じていれば守りに優れる。
ただ、足を前に出すことが難しい。

形意拳の劈拳はわざわざ足を開き直してから前進するし、空手の三戦も足をまっすぐ出せないため斜めに出している。

形意拳の「跟歩」であれば足を閉じたまままっすぐ前進できるが、足を交互に出してまっすぐ歩を進めようとすると、一旦足を開かないと、まっすぐ足を出すことができない。

この点、甲野先生から興味深い指導をいただいている。

相手と対峙して普通に構えると、通常、足が閉じる。
その状態だと「怖いでしょう?」と甲野先生はおっしゃる。

なるほど確かに、相手がどう出てくるか…?と備えている感がある。

「これがソの字立ちだと怖くないんですよ。ほら、止められないでしょう?」

ソの字立ちから突っ込んでくる甲野先生を止めることができない。
どうしても先を取られている感がある。

足が閉じていると、前進するために足を開く必要があるために「一手遅れる」のかもしれない。

基本的には、足を交互に動かして歩を進める場合、「前足の内股の方向」に足が出る。
このため、まっすぐ歩こうとするなら、“ほんの気持ち”足を開いておく必要がある。

とは言え、歩き方にもいろいろある。
ランウェイを歩くファッションモデルは足を閉じたまま歩いているが、あれは足をまっすぐ出していない特殊な歩き方だ。

またおもしろいのだが、「上り坂」を登る際には、足を閉じてないと歩を進めることができない。

あれ?と思って何度も試したが、上り坂だと、足を開いていると歩が危うい。
どうしても閉じざるを得ない。

逆に下り坂では、足を開いて歩く以外ない。
足を閉じて坂を降りようとすると怖くて仕方がない。

どう立つか。
どう歩くか。

これだけでも、汲み取りきれぬ深みがある。

これも、国井善弥の身体観を学ぶ会でつかみ取りしたダイヤの原石の一個に過ぎない。
他の原石についてはまた改めて、言葉にできそうなときに記していきたい。

いずれにせよ、板橋武研にて探究したいことが明確になりつつある。

それは「歩み方」だ。

実際に歩くという意味でもそうだが、武術を志して修行を続ける中での「歩み方」という意味でもある。

自分がどこを観ているのかよくわかってないままでは、歩み方はフラフラ無軌道なものにならざるを得ない。

また「あちらに行きたい」と願っていても、身体がそちらに向かっていなければ、あらぬ方向へと行ってしまう。

人生にゴールはない。
どちらに向かって歩むも自由だ。

しかし、身体の声を聴くならば、「次の一歩」は必然的に確定せざるを得なくなる。

それが「生きる」ということであろう。

宮崎駿の新作『君たちはどう生きるか』はまだ見ていない^^

こういうテーマに多くの人々の関心が寄せられる時代、ということかもしれない。

近いうちに見に行ってみようと思っている😊

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