根腐の腐風 風力5

グラウンドでは追い風相撲部の部員達が背中の翼を畳んでいる。
稽古の辛さに耐えきれずヌフグフと奇声を挙げる者もいた。
件(くだん)の教室の窓には月明かりが差し込み、まるで舞台が終幕を迎えるかの様であった。
が、少年達の困惑の毛糸は尚も縺れ固まっている。
暫しの静寂を掻き分け、徹が言課した。
「城宮は黙ってろ!」
誠は幻惑に嵌った。
「コイツはこの娘を知っている?」
不可解なリアルに誠は、震え脚腰保ちをした。
誠は己の記憶力には自信があった。
高校受験の際に覚えた風発器具、風発公式、風発公害、風発の歴史、逆に火発、その全ての基本的且つ応用的知識が、今も脳表に刻まれている。
だが今はどうだ?
徹が「シロミヤ」と呼ぶ少女を、誠は一皺(いちじわ)も憶えていない。
「やっぱりか」
誠は諦めにも似た感情と共に、常々危惧していた憶測に苛まれた。
彼は己を「詰め込み教育の弊害」そのものであると自認している。
また嫌な現実に呑み込まれた。
自分は風発に躍起になる余り、同級生、恐らくクラスメイトである少女の顔と名前すら覚えていないのだ。
こんな時はいつも、要らぬ考えばかりが頭をよぎる。
昨日の夕食は何だった?
去年の家族旅行は何処へ行った?
最後に見た桜はいつだった?
そもそも先程から言い争っている男の名前は何だった?
誠は軽く頭(こうべ)を垂れて、レンズの厚い角メガネをクイと上げた。
この男について一つだけ覚えている事がある。
それは、この男は、努力だけで風発にしがみ付いている自分とは違い、まごう事無き天才だという事だ。
誠は恐らくこのクラスで最も優秀な遺伝子を引き継いでいる。
教師の眼からみても言逆(ごんぎゃく)の余地は無いだろう。
だからこそ彼には解る。
自分は劣勢遺伝子のみを引き継いだ「あくまで風発人としての」失敗作であると。
それに引き換え、眼の前の男はどうだ?
ボサボサの長い髪、着崩した制服、レア過ぎるNIKEの靴、名門山高の生徒とは思えぬ出で立ち。
なのに試験、論文、実風発(じっぷうぱつ)、全てに於いて完璧にこなす。
飄々とあくびの一つでもしながら、いつも、いつも、いつもだ!
学園祭の出し物を僕に決めさせたのも、風発に不向きな岩とパンを持って来たのも、全部僕を試して小馬鹿にしているに違いない!ふざけるな!それが天才の戯れなのか!?
それに引き換え自分は...
「詰め込み教育の弊害か」
そう呟こうと思い即座に「つ...」でやめた。
珍奇な男だと思われるからだ。
思いのほか人目を気にする性格は、父親譲りだな、と口元を緩ませた。
と、ほぼ同時に城宮が金切った。
「つって何よ!?」

NANDA CHIMI WA ?

「つ、がどうしたのよ!?先崎君!説明してよ!」
誠は確信した。
この女はおかしい。
クラスメイトかも知れない少女の顔と名前を覚えていない自分もおかしいが、この女は自分の比ではない。
100倍おかしい。
「100倍」というバカ数字が即座に浮かぶ程おかしい。
誠は怒りを内包せずに喚き散らした。
「お前さっきから...」
それを打ち消し徹が叫んだ。
「説明しろよ!」

NANDA CHIMI TACHI WA ?

この男もおかしい。
内心、天才であると認め、嫉妬のみならず口外せぬ尊敬の念すら寄せていたが、今はおかしい。
誠は余りの出来事に人生で初めての、震え脚腰保ち揺れメガネ鼻上げ支えをした。
二人の敵は攻撃の手を緩めない。
「つ、が何なのか説明しろよ!」
「旨垣君の言う通りよ!」
「津市かよ!?三重県津市の事かよ!?」
「先崎君は津市出身なの!?答えて!」
「津市じゃ無かったら何なんだよ!?つ、の後なんて言おうとしたんだよ!?」
「先崎君!つ、から始まる言葉、何でもいいから言ってよ!」
誠は最早、普通に泣いていた。
涙が溜まった角メガネは眼が泳ぐ水槽と化した。
誠は普通に泣きながら、最後に女が言った、普通では無い命令に従う事に決めた。
「つ...」
「つ...何だよ!?」
「つ...何なのよ!?」
口はこう動き、音を伴った。

「ツール・ド・フランス」

追い風相撲部の締め飛び四股の怒声が、風の様に誠を舞い包んだ。

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