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まず身近な人の役に立たないとな、と思う。

県の社会福祉協議会に災害ボランティアの登録をしている。
2019年の台風で被災した長野県千曲川のそばの、泥かきボランティアに1度だけ参加した。

コロナが来ている間も災害はお構いなしやってくるが、人間側の事情としては、感染拡大防止の観点で全国からのボランティアの募集を停止していた。大規模災害では広域にわたり都市機能・生活機能が不全になる為、被災地外(遠方)からの支援が重要になるが、それがそうはいかなくなった。

ところが今回の能登半島地震からそういった制約はなくなり、僕の県にも災害ボランティアの募集情報が届いた。

災害ボランティアセンター(以下、ボラセン)からボランティアバス(以下、ボラバス)運行の案内が届き、指定された日程で、希望者は参加申請をする。ボラバスは1回に留まらず、第1便、2便…と、現地のニーズに応じて複数回の運行をする。

第3便の案内メールが届いて、(行けるやん)って思った。

行こうか、どうしようか、と思案していたところに届いた第3便の日程は、たまたま勤務の休みと重なっていた。

行けてしまう。都合をつければ。


前回2019年のボラバスの時は、1週間ほど前に参加を決意し、本来出勤だったところを急遽調整して休みにしてもらい、家族の予定は顧みず、ばあばに泊まりに来てもらい幼子のお守りを依頼し、一念発起、自分ひとりだけの気持ちに従っての参加だった。

大なり小なり人助けってそういう事なのかもな、とは思う。そうしないといけない時も大いにあるかとも思う。


今回の第3便を見るにつけては、敢えて勤務調整をする必要がないので、行けてしまうということになる。

しかしな、

と考える。

塾の送迎はどうする?妻は勤務環境が変わり終業時刻が読めないことが増えている。買い物に加えてお迎えも頼むのか。じいじにお願いするという選択肢がなくはないが。僕は5年ほど前まで当たり前のようにやっていた残業を今ではしなくなり、家にいることが増えた。家にいたからといって何かが突然変わるものではないけど、いる時間が増えたら子どもが話しかけやすくなる。話しかけてくれる確率が必然上がる。あ、確率は上がらないか。確率は一緒で、分母(父がいる時間)が増えたら分子(話しかけてくれる回数)も増えるよな。そうすれば勉強の質問もしやすくなるだろうよ。いつでも聞きたいことが聞けるという役割なんだよ、要は。家事の僕の役割の負担分が妻にいくと、妻は大丈夫とは言ってくれるけど忙しくなることは確実で、そんな母に子どもらがいつもの調子で絡んでいった時にイライラが暴発するんじゃないか、本来僕がやっていたことを全部他に押し付けてまで今行くことなのか?いや、語弊があるな、生活状況が異なる人からすれば今僕が逡巡していることは取るに足りないことであり生命の危機ではない、しかし日常生活の一部という点ではどの場面にいる人にも共通しており、それぞれのやれる範囲でその人のその時の最善を生きていることに違いはないはずだ。



被災地に出向いて現地で何かに貢献することは尊い。間違いない。
しかし今の自分にとっては、身近な人の役にさえ立たなくなるのはお門違いじゃないかという気もしている。


いろんな考え方があるという前提の上で、今僕は、身体的にも精神的にも不安定な状態で(身も心も不健康な状態で)人助けに出向くことはできない。


こういうことって巡り合わせだと聞いたことがあり、事ある毎に(都合のいいようにこじつけて)自分の是としている。


ごちゃごちゃ書いたけど、
行くときは結局思いきりだけだよ
勢いがないと行けない


迷ったときはもう行き時ではなかった、そういう事。
後先考えず行ってしまえよ。