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みんな駅伝のどこ見てるの?

母の正月は、男性が季節感のない薄着で走っている映像を見ることに捧げられている。

そう、駅伝である。

1月1日はニューイヤー駅伝(社会人駅伝)。
1月2日と3日は箱根駅伝(大学駅伝)。

早朝から昼過ぎにかけて連日生中継される映像をおせち料理片手に凝視する。

子ども心に思っていたのだが、駅伝やマラソンの中継というのは不思議だ。

常人には追いつけないような速さで走っている選手たちを、中継車やバイクなどで基本的には前から撮影する。

するとどうだろう。
フォームが美しく、小気味良いステップで軽やかに走っている選手たちは、ジョギング程度にゆっくり走っているように見えるのだ。

本当に速く走っているか否かを判断する基準は、選手のスピードに負けまいと並走する子どもたち。苦しそうな顔をして走っていた子どもたちが、やがて追いつけなくなるのを見て、はじめて選手たちの速さを感じる。

それか、たまに流れる上空からの映像を見ると、大股で走っていることがわかったり、すぐ横を並走していると思った選手が実は数メートル後ろにいたことがわかったりして驚かされる。

ただ、基本的映るのは選手を前から見た映像だ。その変わり映えしない絵を正月から3日連続で永遠と見せられることが、子ども時代は苦痛でしかなかった。

そのためか、駅伝を見ていて「ケガや不調で走れなくった」「タスキがつながらなかった」という悲劇が起こると、ちょっとだけ心が動いた。私の中でそういった選手・チームを応援したいという気持ちが生まれるからだ。

しかし、それと同時に「これは人の不幸を喜んでいるのではないか?」という罪悪感が湧いた。この日のために一生懸命練習してきた選手たちのアクシデントを、待ってました!と言わんばかりに応援するのはいかがなものか。正しい楽しみ方なのか。

そう思うと、また正月から暗い気持ちになった。

母には幾度となく「なぜそんなに駅伝が好きなのか?」と聞いた。すると母は、こう言った。

「お母さんはあんなに速く走れないからすごいなって思うの。それにあのカモシカみたいな鍛えられた足が素敵でしょ」

色々と言いたいことはあるのだが、そのために毎年正月の10時間以上、累計すれば200時間とかそれ以上を費やしているのかと思うと信じられなかった。後半の理由については、そんなところを見ていたなんてなんか嫌だと思った。

あと、もう一つ理解できなかったのが正月の朝から沿道で応援している人。テレビの前でぬくぬくしているのならまだしも、知り合いでもない人をわざわざ沿道に立って応援しているなんて、寒い中にご苦労なことだなあと思っていた。

***
時は流れ、社会人になり、偶然箱根駅伝の走行ルート近くに住んでいたことがあった。なぜか正月早々に実家から戻ってきており、正直やることもなかったので、せっかくならと一人現場に向かった。

第一京浜道路の蒲田―大森間の某場所に、選手たちが通る10分くらい前に到着。普段は人がまばらなのにも関わらず、大勢の人がいた。

急いで人の少ないところを探しものの、道路から3列目。人と人の隙間からギリギリ道路を覗きこむ始末。あまりの人気に驚いた。ボランティアの人なのか運営なのかわからないが、早稲田大学の旗をくれた。

しばらくすると、スタッフのような人が来た。

「はい、間もなく早稲田大学通りまーす! 下がってお待ちくださーい」

ちょっとした緊張が走る。そしてすぐ、中継車とすぐその後ろにエンジ色のユニフォームの選手が現れ、ものすごいスピードで走り去って行った。

周りの観客たちは旗を振って「がんばれー!」と声をかけていたが、呆気に取られて何もできなかった。テレビでは、ただ軽やかに走っているお兄さんに見えた選手が、厳重な警備と多くの観客に見守られてスターのように見えた。なんだかオーラがあった。

選手が通り過ぎた後ろ姿を見て、我に返り、久しぶりに出したかすれ声でぼそっと「が、がんばれ…」と言った。言い方はさておき、これが、私が初めて箱根駅伝に正しく応援した瞬間である。

やはり、現場で実際に走っている姿を見ると、選手のすごさがわかり、純粋に応援したくなった。

でも、冷静に考えたら、既に選手は全力でがんばって走っているのだ。箱根駅伝をずっと見ている人をチベスナ顔で見ていて、それがなかったら正月に特にやることがないという、まずはお前ががんばれ。

文・香山由奈
編集・鈴木乃彩子さん

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