【読書ノート】「こちらアミ子」今村夏子さん著

 聞いた話だが、東京でアマチュアのオーケストラがたくさんあって、一見平和そうに見えるが曲決めやメンバー同士のいじめ、権力闘争が凄まじく、毎週週末の練習後にはギリギリの友情をつなぎとめるべく、深夜まで飲み会が繰り広げられ、でも3年もたないところも多いという。

 結局解散して新しいオケを作っても、演奏するのは「運命」や「新世界」など誰からも強い反対が出ない曲をヘビーローテーションでやることには変わりがないのだが。

 人間がいい人のふりをできるのは3年が限度ということか。学校だって3年して新しい人間関係にシャッフルされるもんね。

 面白いのは何年も平和裡に続いているオーケストラは、団長の血液型がAB型なのだそうだ。ただ彼らが違うのは曲決めも自分一人でやり、いじめが発生すると問答無用でその場で退出を言い渡す。その過程で通常の人間ならノイローゼになりそうなぐらい怒涛のようなクレームのメールが来るらしい。

 そのうちの何人かに聞いてみた。なんでめげないの? 

「メール? 読むけど意味がわからないんだよね。練習場に来て音を出すだけなのに、なんで権力を握ろうとするの?」「ライン? やらない。あれやれこれやれと言われるだけだし。人に対して、やれよ、と命令するひとに限って助けてくれることはまずないし。聞くだけ無駄」。

 ひとに対する関心の無さは清々しいほどだ。

 その話を聞いて思ったのは「自分を助けてくれないひとの気持ちなんて気にしない方が幸せではないのか」ということだった。

 そんな思いを抱えながら「こちらアミ子」を読んでみた。今をときめく新進気鋭の作家の出世作。

 ただ個人的な理由で申し訳ないが私は不幸な人や、貧乏な人の物語を書くことはもちろん、読むことは避けてきた。不幸が自分の中に入り込むような気がするからだ。

 いまの時点で報われていない、ということは過去の時点で自分が不幸だと思ったことはなく、這い上がろうともしていなかったのではないか。私はオペラの「ラ・ボエーム」をなるべく見ないようにしているのだが、売れない画家や作曲家の若者が屋根裏で、家主のお爺さんをからかったり、無銭飲食をするシーンが続出するからだ。

 自分の所属する音楽団体で「なぜこの若者はコンビニでもいいからアルバイトをすればいいではないか」「なぜワンルームマンション投資をしないのか」など、上演に強硬に反対して周囲から呆れられたこともある。

 ただこの歳にもなると、というより子育てを終えた上で自分のやらかしたことを振り返ってみると、自分が頑張るつもりでも、途中で引越しなどが入ったり、不本意ないじめにあって勉強できる環境から離れざるをえないことも人生では日常茶飯事だと知った。

 また見えないところで世間の暴力から自分の子供を守りきれなかったこともあるし、配偶者と子育ての方針をめぐって不倶戴天の敵とばかり対立して、家庭の一部がポロリと壊れかけたこともある。これは自分や相手に過剰に期待をしているため。長年抱いていた優越感や劣等感、愛情や憎しみも状況が変わるとあっという間に砂漠のように形を変えることを知った。

 この物語でも、主人公のアミ子ちゃんは勉強ができないから学校に行かないし、学校に行かないから勉強もできない。物語の途中で兄妹は今の父母に引き取られて血のつながりがないことが暗示される。実際アミ子は自宅でありながら、母親が経営する書道教室に通話せてもらえず、恥ずかしい子だとばかりに周囲から隠されている。

 もともと素質や育児環境に恵まれているとは言えない子供が、親の加護も半ば受けられず、ジャングルのように遠慮のない暴力が吹き荒れる学校や、人の不幸や粗探しに明け暮れる地域社会に放り出された場合、どうなるだろうか。

 のちに不良になる兄のおかげで露骨ないじめには合わないが、出産をめぐるトラブルで母親が精神を病み追い打ちをかけるようにアミ子とのりくんが善悪がよくわからないまま死産だった弟のためにお墓を作るシーンが出てきたりと胸がふさがることが多い。

 アミ子は、自分の母親の書道教室に通う、字が上手な男子生徒「のりくん」を小中学校通じて、周りに冷やかされながらも追いかけ続ける。一見すると痛々しいが、周囲の環境が目に入っていない彼女の愚鈍さがあるからこそ、あえて言うがのうのうと反省もせず、生き続けていられるのだと思う。一つの目標に猪突猛進する必死さは読んでいて清々しい。

 事実、アミ子とは対照的に兄は環境の苛酷さに耐えられなかったせいか、たいして問題児でもなかったのに自分を受け入れてくれる不良の世界に入り込んでしまった。

 自分のペースを崩さなかったアミ子と、周囲を意識したのか、不良になってしまった兄、病んでしまった母親、一人で問題を抱えきれなくなり放心状態の父親、アミ子や周囲に押しつぶされそうになり歯が折れるほどアミ子を殴ってしまったのりくんは、あまりに対照的だ。

「自分の人生を生きたい」と思っていながら、道を塞がれ行き場を失った人間がいかに脆いか。「前進しろ」「努力しろ」と言われて尻を叩かれて懸命に生きてきた人ほどいったん希望を失うと転落するのも早い。大阪弁で「ぼちぼちいこか」という言葉があって私は「六十点主義」のススメだと解釈しているのだが、アミ子はたぶん六十点も取ろうとしていないだろう。

 ただタイトルにもある通り、電池がなくなり片方が欠けているトランシーバーに耳を当てて「こちらアミ子」となんども呼びかける姿は、人間の最後に残された真実ではないか。どんなに絶望に打ちひしがれようと、どんなに拒絶されても人とコミュニケーションをとりたい、というのが全てを取り去って残る人間の姿なのだろう。

 「こちらアミ子」は元々別のタイトルだったとのことだが、このタイトルは秀逸だし読む人の胸を打つ。ビブリトバトル風に言うと、兄が不良化したのはなぜか、また母親が病んでしまった理由は死産だけなのか、メカニズムについて書き込んでほしいと思った。作者本人は読者の想像に任せるつもりで、露骨には書き込まなかったのかもしれないけれど。

 ちなみに同じ本に収録されている「ピクニック」、短編集「父と私の桜尾通り商店街」なども読んでみた。せっかく愛情を注いで幸せを作ろうとしているのにプレゼンをくれた本人から「それは着ないほうがいいんじゃない」と思いを拒否されたり(「白いセーター」)、母親の不倫がもとで商店街から村八分状態に置かれたが商店街に進出してきた本来は敵であるはずのベーカリーの経営者と思いを通わせてよりによってそこで就職しようとしたり(「父と私の桜尾通り商店街」)、いい人だと思っていた知り合いがアルコール中毒寸前なのを目の当たりにするが人形とベトナム人の友人に希望を託したり(「ルルちゃん」)など、何かがずれて親しい人に思いが受け入れられず場合によっては裏切られる人間の悲しさを描いた作品が多い。

 若い読者によっては希望のなさに胸がふさがる人もいるかと思う。「人生は幸福と同じぐらい不幸も砂のように吹き飛んでくれる」ということを経験で知っているのも、五十を過ぎたおじさんの利点だろう。

 それに利害関係のない人ことを気にしなくていい、というより気にしない方がいいことも。

 えっ? 私の血液型ですか?

 もちろんAB型です。

 人の気持ちがわからないから、心を病むこともなくのうのうと生きてこられたんですが。


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