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小説「通奏低音」(2)

阪急の改札前で待ち合わせ。

 高杉はすぐわかった。いちおう音楽家らしく、えんじ色のシャツに茶色のヴェストを着込んで小ぎれいにしている。が、きれいなのはそこだけで、何日も洗っていないらしく、髪の毛が脂ぎっている。靴も先端部分がパカッと口を開けている。

 喫茶店でコーヒーを注文したのもそこそこに、「わたくしはですねー、はあ、トーキョーゲーダイ、あ、ご存知でいらっしゃいますか。そこの楽理、つまり音楽理論ですね。そこを出ましたんですが、え?できる楽器ですか? わたくしもいろいろやってきましてねえ、はあ(と遠い目)。本当はチェンバロでございますが、ドイツから持ち帰ったのは全部壊れておりまして、いま止むを得ずやっているのがピアノでございまして・・・というか

 人前で弾いて形になるのはピアノでございましょうか。あ、大阪のコーヒーって非常に苦うございますねえ」。

 これ以上書いていると日が暮れてしまうのでやめるが、つまりこうだ。ご両親がともに音大卒でひとりっ子だったことで「母親がことさら望んでおりましたものですから、はあ」と、期待に応えるべく国内最難関の東京芸大に。

 地元は埼玉県だという。卒業してからさらにドイツで十五年間プロになるために勉強した。が、悲しいかな楽器専攻でなかったので、「在学中すでに演奏仲間もおりませんで」、帰国後も浦島太郎状態なので友達もおらず、社会的に孤立している。

 「わたくしの欠点でございますが、なにを言っても人を怒らせてしまうものですから言葉はなるべく丁寧に丁寧に、と心がけております」。

 電話口での過剰な丁寧さは苦い思い出からだったのか。

 いまは埼玉からお母さんの故郷の明石に移って介護をしているが、ドイツにいたときのようにバッハなども演奏してみたいーーとのことらしい。

 「ところで桜井さまのオーケストラというのはどういう感じなのでしょうか。いえ、私は、はあ、芸大は出ておりますが、人を集めるのが苦手でございまして。音楽科もないようなふつうの大学出でいらっしゃるのにオーケストラを作るなんて・・・」。

 さっそく礼儀正しいのか失礼なのかわからないようなことを言う。

 まず自己紹介がてら自分はヴィオラであること、そしていま通っている音楽教室の先生や大学時代の仲間を誘って、オーケストラを作ろうとしていること、ただ人数も少ないので、ピアノがいると十個は音が増えるし、バッハあたりの小編成のものをやりたいことーーーー。

 「基本的にあとは(無料で来てくれる)指揮者さんがいれば、形はつくんですわ」と言い終わらないうちに高杉の目が輝きだした。

 「指揮者ねえ、ま、やってもよろしゅうございますよ。バッハは指揮者が鍵盤を弾きながら指示を出すのがふつうでございますからね。あと私の自宅にはチェンバロがあります。はあ、屈強な男性数人が、トラックで明石まで来ていただければどこへでも参ります」。

 いやいや、トラックで明石と往復している間に、練習時間も終わってしまいますから。遠回しに、かつ丁重にお断りしたが、それも聞こえないようで、彼の一人はしゃぎは止まらなかった。

 「ドイツでは、はあ、バッハのブランデンブルク協奏曲6曲全部演奏したものですから、こちらでもやらせていただければ光栄至極で、いや本望で楽しみでございます」。

 バッハのブランデンブルク協奏曲。

 はしゃぐ高杉を見ながら、自分の心もぐらっと動くのを感じた。「プロの先生でさえ全曲制覇は無理」と言われているブランデンブルク協奏曲。ヴィオラもまともにできない俺がやるのか。

 有名なのは5番だ。以前深夜のテレビで流れていた「石庭」というラブホテルのコマーシャルで、佐藤蛾次郎が金髪の美女を車で連れこむという人間の煩悩てんこ盛りのシーンで流れていたのを覚えている人もいるだろう。

 と言っても、これが「5番なんか」と俺もヴィオラに来て初めて知った。

 でも、あのね、高杉さん。ひとつお願いしたいのですが。

 「はあ、なんでしょう、はあ」。

 その髪の毛、練習前に絶対洗ってきてくださいね。毎回ぜったいです。せっかくあちこち頭を下げて集めたのに、女性メンバーが抜けられると、楽団自体成立しませんから。あとその靴、とりあえず三千円お渡ししますから、神戸駅の泥棒市でも構いませんから、買ってきてください。というか、いますぐそれは捨ててください、んもう!

 「えっ、初めて言われた」と言わんばかりに高杉はびっくりしている。

 あと、あなたはふだん何をしているのですか?

 「はあ、学校を出てからいわゆる就職したことがございませんで、合唱指導のアルバイトをしております。そこもなぜかおばさまたちは片っ端から無視されていじめられておりまして。だだ音楽家でいたいという思いは強く持っているものですから」。

 はあ、それで? 

 「関西に参りましたときに芦屋のルナホール、ですね。ちょうど手頃なものですから、年に2回リサイタルをやるようにしております、はあ」。

 俺は思わず居住まいを正した。あのヴィオラの尾崎が梅田で言っていた「3%しか残れない」という中に、この人は一生懸命入ろうとしている。

 この人に自分のオケの運命を預けてみるか。

 「高杉さん、謝礼ですけど」。息をのみこんで言ってみた。

 「試用期間ということといろいろ費用もかかっていますので、とりあえず交通費として1回二千円でどうでしょ」。

 「こんな人なんやけど大丈夫かな」。

 さっそく尾崎に電話する。

 「ま、一度会うてみたいなあ」。

 尾崎は姫路のオケで、ゲスト演奏家との交渉を任されているらしく「相場観はある」らしい。彼のオケでは独奏楽器とオケが盛り上げるいわゆる「協奏曲」をやることがあり、地元のソリストに打診するのは彼の役目。しかし「わたくしは音大を出てますから。プロでございまして。おーほほほ」と言いながら、謝礼を釣り上げるらしい。

 と言ってもほとんどが、リサイタルをやったりCDを出した形跡もない。

 「バッタもんが多いねん、自称プロの」。


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