科学を科学たらしめるのは何??カール・ポパー「推測と反駁」【ディスカッション紹介】

10月22日は、「知的複眼思考法」の第3章『問いの立て方と展開のしかた』、第4章『複眼思考を身につける』及び、カール・ポパー著「推測と反駁」を読んだうえで、ディスカッションを行いました。

前週は複眼思考のベースとなる概念を学び、そもそも複眼思考がどのような時に必要なのか議論をしましたが、今週はより実践的な技法を学びました。複眼思考を持って問いを立てることは、社会科学の方法論そのものと言えますね。

一方、「推測と反駁」では科学と疑似科学の違いとは何か(境界設定問題)、科学的方法論としての帰納の否定などを学びました。少し難解で回りくどい文章でしたが、語彙自体は比較的平易であったため、1行ずつ丁寧に読み込めば非常に鮮やかな論を展開していることが分かりました。これからアカデミズムの世界で論文を読むときは、常に反駁可能性を念頭に置いていこうと思いました。本書をまとめたパワーポイントを添付するので、もし宜しければご参考にどうぞ。

では、以下がディスカッション内容です。

T君:「知的複眼思考法」第3章発表
S君:ハーバード大学教授の講義でも一番重要視されているのが相関と因果を見抜くことであると聞いたことがあります。肺がんの原因はタバコで、タバコを吸っている人はライターを持っていることが多い。だからといってタバコでなくライターを規制してしまうのは違いますよね。でも、現実でこのような考え方をしてしまうことは気づいていないだけであるかも知れない。私たちはこの原因と結果の関係を正しく捉えなければならないでしょう。
K君:問いを立てること自体が問いでそれこそが学問の真髄なのではないかと思いました。これから卒業論文を書く僕たちにとって丁度必要なものなのではないでしょうか。
Aさん:「知的複眼思考法」第4章発表
Uさん:やる気について、個人による面と外部との関わりによって変わる面があると本にありましたが、たしかにそうだと思うことがありました。アルバイト先の塾で数学の成績が芳しくない(中2で3桁+3桁の筆算もできない)生徒がいたんですけど、当然やる気もなかったんです。ただ、その子自身の持つやる気が全くないと言よりは、勉強に向かうやる気がないといった感じで、実際サッカーはユースでもかなりできる方でした。どうしてやる気が出ないのだろう?と考えた時、サッカーでは褒められるのに勉強では褒められることがあまりないと言うことが分かりました。まあ、点数が出なかったり褒められなかったりするとやる気って中々出しづらいですよね。残念ながら計算もほとんどミスをしていたので中々勉強で褒める点はなかったのですが、線をまっすぐ引けたり式を見やすく書けたりしただけでも褒めました。続けるうちにそういった習慣は定着しミスは減り、全体の勉強に対するやる気も向上したので関わり方次第で他者のやる気にも影響を与えられるんだなと実感しました。
中澤先生:モチベーターの役割はとても大事だよね。僕はみんなにやる気を出させることができているかな?(笑)
O君:もちろんできていますよ!この章を読んで、僕は今まで結論ありきで物事を考えていたなと思いました。卒論で男女の部活の枠組みについて研究しようと思っていたんですけど、自分の中で結論がもう出ていて男女一緒にやる方がいいって言おうと決めてたんですね。でも、この章を読んでそれは危険な考えだったなと気づきました。自分にとって都合がいいように考えると、自分と違う目線を持つ人について考えが及ばず批判の目に対処できなくなってしまうなと。
K君:「推測と反駁」発表(添付PP参照)
F君:ポパーが疑似科学として主張する例として、マルクス理論もいいけど、星占いの方がわかりやすいなあと思いました。
中澤先生:占いみたいに、間違ってる証拠を突きつけられないものは明らかに疑似科学だね。フロイトの精神分析理論やアドラーの個人心理学の話に当てはめると、例えば、母親が子供を殺した時、抑圧に苦しんで子供を殺したというような分析がなされることがあるね。だけど、本当にそれが原因なのかは本人以外分からないよね。そうじゃないかもしれない。ただ原因のように思われやすい。こういった嘘の正しさが積み重なると疑似科学になっていくんじゃないかな。
F君:問題提起をしてもいいですか。なるほど、と思うところもあったんですけど、そもそも推測と反駁って矛盾しているんじゃないかなと思いました。科学って何かを説明したくて推測するのに、反駁しないと科学じゃないなら科学者は何やってるんだろうってならないかな。批判的に見たら、独断主義がダメだから批判的であるべきっていう考えそのもの独断なんじゃないかって思えちゃいました。
K君:反駁すると科学になるんじゃなくて、反駁の余地がある(反駁可能性)ことを科学と呼んでいるのではないかな?
F君:研究者側は絶対的に正しいものを求めるべきでしょ。反駁の余地があるものを作るのは怠慢なんじゃないの?反駁されないものを目指せばいいのに...。
中澤先生:アインシュタインの相対性理論を用いると金星の位置を予測できるけれど、実際に確認しないと正しいかどうかなんてわからないよね。実際に見てみた時「本当にあった!」となれば、「ない」という反駁の可能性もあったはずなのに、証明されたことで科学的に正しいと言えるようになる。要するに、推測は理論で反駁は実証。この緊張関係が科学を科学たらしめているとも言えるわけだよ。ただ、僕にポパー好きだからディフェンスにまわってるところもあるかもしれないな(笑)
K君:読んでて疑問に思ったことがあるんですけど、ポパーは帰納法を否定してたけれど、帰納法で理論を組み立てられないならどうすればいいんですか?演繹法を使うとも言ってなかったんですけど...。
中澤先生:(理論の組み立て方は)何でもいいんじゃない?99回調べて99回そうでした!でもセレンディピティでも、経験だっていいと思う。ただ、ポパーが言いたかったのは仮説は仮説で、科学的に正しいと証明する段階には帰納法だと足りないってだけ。あとF君の疑問にも関わってくるけど、仮説の実証に際してそれと対立するものを反駁して自身の仮説の正しさを示すというやり方もある。数学でやった背理法だね。
F君:少し前の話になるんですけど、O君が部活動は男女平等であるべきという話をしていましたが、社会科学は価値を持ち込むべきではない、とマックスウェーバーの本に書いてありました。価値を持ち込むべきではない、というのは物事が〇〇であるべきだという考えを社会科学の研究とかアカデミズムの分野に持ち込むべきではないということです。だから、太田くんの研究も価値観に基づいて始めるのではなくて分析から始めたほうがいいと思います。
O君:一回ニュートラルに見た上で主張するっていってもデータ集めの段階で偏っちゃいそうだし、自分で判断するのが不安になっちゃいました。
K君:結論ベースの研究はダメって言ってるけれど、結論を仮定に変えればそれも一つの研究になるんじゃないかな?自分の意見のために恣意的にデータを集めるのはダメだけど、データを集めた結果、結論と同じになるのはいいんじゃないの?
S君:研究の蓄積で社会の風潮が変わるのか、それとも社会の風潮で研究が変わるのか、どっちなんでしょう。上野千鶴子先生が男女平等にすべきって言ったから以前よりも社会が男女平等に近づいてきたのか、社会の流れの変化の影響でジェンダーが研究され始めるようになったのか...。
K君:上野千鶴子先生がジェンダー論を発展したから〜って言ってるけど、そもそも始めた理由は社会を変えるためなのか、風潮なのか、個人的な体験とか予測に基づいてなのかはわからないんですけど、社会科学の意義の一つとして、社会を変えられるものが研究テーマになるべきというイデオロギーが正しいならば、多くの論文が否定されてしまうかなって思いますね。思想(社会学者はリベラリストが多い気がします)と研究の分離とかってどう考えたらいいのかなとも思いました。
F君:344ページにあるんですけど、セクハラが問題視されたから問題として捉えられるようになったという話もあるから社会の目も大事だと思います。
中澤先生:上野千鶴子先生は思想の上に研究が成り立っているタイプの人で、学問をある意味道具にしているとも言えるかな。フェミニズムという政治思想のために従属しているというか。対照的に僕は日本の部活動について思想があった訳でもなく、「何か部活って変やな」と興味関心が芽生えたから研究しているタイプかな。
K君:先程学問が道具として使われている話がありましたけど、それがいい悪いはともかく、国民の税金によって研究資金が賄われているのに、自分の思想と逆な政治的立場を支持する研究に使われるのは嫌だって人もいますよね。
中澤先生:それに対しては、国民のなかには反対の立場をとっている人もいるという反論ができるよね。国益は一枚岩ではないから。テニュア制度といって、簡単に言えば自由な教育研究活動を保障するため、研究者を定年まで原則クビにしないよという契約が海外にあるね。僕は社会にわざと外れた人を埋め込んでおくのは大事なことだと思う。そろそろ時間だけど鈴木くんはどう思う?
S木:文系学者不要論ってあったと思うんですけど、理系は発展、文系は安定を作る学問なんじゃないかなって僕は思うからどちらも必要かなって。
中澤先生:文系の学者としてはそう言ってもらえてよかった(笑)
院生1:楽しく意見を聞けました。文系不要論に対しては反駁できるのではと思いました。自然科学と人文科学にどちらが上とかないなって。医学は直接的にたくさんの人を救えるけれど、政治学でも間接的に人を救うことができます。
院生2:O君の話を聞いて、自身が院進の際に考えていたことを振り返りました。自分自身に問いかける時間は本当に必要だと思います。知的複眼思考法の3章や4章にもあったように、どんどん問いをずらして自分自身への問いかけを続けたいですね。



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