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終わりの美学の不安定さと現実

ここ最近の仮説で終わりの美学が自分の中に存在してるかもしれないと思っていて。

これはKing Gnuの常田さんとか、キンコンの西野さんとかも言ってて。
終わりがあるものには、区切りが強制的に発生されて、コンテンツや哲学ってものは、それらに影響を受けてさらに磨きがかかる。

これらを踏まえると、感情ってのはもの凄く不確かな情報源でしかなくて、何かを信用するには厳しいものである可能性もある。

ただ、上記の場合は他人発生であり、自己発生の場合は除くかな。
それは、直感に対しての信頼度とか、自分なりの哲学のもとに感じたことであり、ブレ幅が小さい気がする。

で、恋とか愛とかって気持ちが悪いなぁーって思ってて。
仕組み的に考えると自己愛と他者愛の関係が成り立つことで、初めて成立すると。

ある意味で、学生時代の付き合うとかって終わりがあるようで、無くて。
その関係性ってものはかなり不確かで時間の浪費という意味で捉えると非効率的な気もする。

付き合うことで、その気持ちの高鳴りも、付き合う楽しさもあるかもしれないが、なんかもっと大きなものを手に入れることができるかもしれないってところでストップかな。

不確かなものを信じ続けるって凄く体力がいるし根気もいるよね、それらの体験を2人でどーにかこーにか乗り越えて、結婚っていう世の中の1つの枠組みにはまるのであって、これも終わりであり終わりでない。
老夫婦になっても愛し合えるのは、そういう意味だとすんごく羨ましい能力。

だけど、なんだろーね。いまいち楽しさが分からないというか
結婚して、子育てすることに興味はあるし、別に嫌いでもないけど
世の中で生きやすいようにと、必要とされてる、レッテルの中には結婚自体の優先度は低くなってるのも事実で。
近くも遠くも、結果的にはこんな感じの考え方をしちゃうのかね

薄々気付いてるのは、明確化する必要が無い内容なのかもと。
やっぱり、世の中嘘ばっかりで。それは人々が嫌なことから目を逸らし続けてきてそうなっていて。
世の中の正義とか真実って、実際のところの倫理観とか冷静な分析をしてみると間違ったりしてて。

実は、嘘とか愛とかってのはかなり近しいもので。
今の社会みたいに、巧く見たいところだけを注視させて、嫌なところは隠すんだろうなぁって。
でも、これって愛の美しさには悪影響になりかねなくて。
半世紀以上付き合う可能性のある人とその関係は気持ち悪いなと。

正解とかは別に求めてないし、答えはそれぞれ違って良いと思う。
でも、人間として立ち向かっていくべき命題なのかなーと思って書いてみました。
もし良かったら、伝えてみてもらえたら嬉しいです。
これからもこんな迷路を歩き続けます。

本日も一読ありがとうございました。

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