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もうすぐ公演なのだけれど、稽古で役者と共有したことを、改めて書き起こしてみる。セリフとか距離とか演技とか客について。

劇場に客が居て、役者が客にセリフを聞かせると考えるのは、一旦脇に置いておく。
なぜなら「客」というのは、そもそも位置も確定していないし、本質的にはコントロール不可能な存在なので、それを想定して音を出すとなれば、当然力加減がおかしくなるからだ。
とりあえず最初は、登場人物として、どんな振る舞いをするのか。そこから導き出される発声、発話の音量はどの程度かを考えるところから始める。

日常の発話と同様、演劇セリフも思考の結果として「話す」ことが選択されたと考える。他にもあった様々な行為の可能性の中に、このセリフも存在していた。
台本にはセリフしか書いてないので唯一無二に見えるかもしれないが、役者は舞台上に身体ごと放り出されていて、言葉だけがそこに存在しているわけではない。
座っているのか、立っているのか。どちらを向いているのか、どんな表情をしているのか。誰かの視界に入っている限り、見え方全体に裏付けが求められ、その妥当さの範囲の中にあることを求められる。
ここをゼロ地点として考える。

そこから、まずは登場人物の関係性の中で、どんな意思疎通が必要とされているか、その妥当さについて立ち上げていく。
描かれている関係性や思考、行為は、そのフィクションの要求に従って日常とは異なる誇張が施されている。
その誇張が常に実行され、フィクションの場の中で共有できているか。
一人で、どんな場所を占めるか。二人以上になれば、どんな位置関係、どんな距離になるか。
どんなコミュニケーションが行われ、誰が誰に対してのマニュピレーションが発生するか。
こうして、ゼロ地点から少しだけ意識しなければならない空間は大きくなり、時間も流れ始める。
時間が流れることを意識した段階で改めて、セリフごとに意味を考えて言い回しを工夫する様な台本の読み方を捨てているか、改めて確認しておく。

さて、誇張の加減について考えることは、フィクションとしての加減を考えることだ。
どの程度の緻密さで押し通していくかについて考えてみる。
例えば、完全に日常の熱量に近い状態で発話すれば、非常に細かなニュアンスまで含めることが可能になる。
セリフとして書かれた言葉が詩的だったり抽象的だったりしても、まるでそんな日常があるかの様に発話する。まさに、そんな演技をするというだけのことだ。
「こんな詩的な言葉で会話しない」そう考えたとしたら、日常に詩が足りないことの方を恐れてみて、その距離を埋められないかを試みる寄り道も考えておくと、できることの幅が広がるかもしれない。
どうであれ、その場に存在するにあたっての、「それらしさ」を工夫することが演技につながっていく。自分ならどうするか、自分と自分が演じる登場人物との距離感、自分自身ではなく、登場人物としてどうすることが妥当なのか、登場人物はあくまで登場人物で、自分自身と同期させるのではなく、扱いを決めて、どの様な操作を自分自身に加えるかを決める。だからこそ、できるできないが生じ、できないを妥当なレベルまで持っていく稽古をする。

自分自身に加える操作を、「演技」という前に「操体」と捉えれば、役者が実際にその様子を舞台上で見せるわけでなくとも、歌う訓練や踊る訓練をしていることの有利さを考える手がかりになる。声がどんな風に出ているか、体がどう動いているかの把握の手段として、効率良く利用できる体系が、歌の訓練や踊りの訓練だ。操体という意味では、武術やスポーツ競技、ある種の仕事の動きの中にも、利用可能なものはあるだろう。

こう考えれば、発声練習はそもそも大きな声を出す練習ではなく、体を使って音を出す練習で、人が出す音は言語として機能するので、そこに意味を乗せる加減についての練習もあるという見方をして、いわゆる滑舌、アクセントなどへのケア以前にどんな音が出るのかという確認と、音量調整についての訓練を切り分けてみる方が、効率が上がるのではないだろうか。

役者がやることは、自分自身が演技するにあたっての個体性、できること、できないことを知って、「登場人物」として自身を操るための加減を把握することにある。

さて、この時点でも、まだ、フィクションが立ち上がる場に、どう存在するのかを考えるということはあっても、まだ「客」は出現していない。客を意識するのは、どのあたりからになるだろうか。引き続き考えてみたい。

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