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OSを乗り換える

命を宿して生活するこの時期が、何もかも特別だったことを、思い出しながら噛みしめている。自分とは異なる命が確かに自分の中で生きている。わたしとは別の意思で、何かを考え、動き、今日も生きている。

生命の歴史が自分の中に濁流のように流れ込んでくる。どこかから、さくっとやってきたかのような不思議な存在。実際は長く苦しい鬱蒼とした3年間の先にあったのだけど、それでもとても軽やかに私のところに来たように感じてしまう。いまは、当たり前のように、毎日一緒にいる。その不思議さを感じるたびに、きっと簡単にどこかにいってしまう、とても軽やかな存在なのだと考えさせられる。だから、自分の命が消えていく夢をよく見るし、息子が生きていることが毎日奇跡だと思えて、失わないか怖くて仕方ない。

OSごと書き換わる経験を、普通にスペックの低い、生身の人間がまるごと引き受けることになるのが、この時期特有のジレンマだ。

それは当然のことだと、喜びと幸福で素直に自分を満たせる女性もいると思う。いつでも、白にも黒にもなれる余白や余暇があるほど世界に委ねて生きていれば、空白だったところに新しい色を塗り合わせればいいのだから。それを新しい「わたしのお気に入り」だと言えばいいだけ。

委ねて生きていない人はそうはいかない。OSを選んで、それなりに泥臭く駆け抜けている。もともとのOSを実装したまま、生と死のリアリティーが急に色濃く体内を駆け巡っていく、そんな自分になる。

新たなOSを選べば、母親というアイデンティティ1本で、シンプルに生きられるんだと希望を抱いていた。でも、そうはさせまいと抵抗する何かが、自分の中にいつのまにか生成されていたことにも気づいている。

そういうことを今一度きちんと考えて生きなさいと、改めて教わっているのかも。


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