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灰色の街で

すべて結果論だろう。
悪あがきを続けている。
だからうまくいったこともある
もうここまでかな、という気分の今でさえ、
たぶんうまくいくだろうと、無条件に思うから呆れる。

4歳の、10歳の、15歳の、18歳のわたしは、
きょうの日を生きる私が、もしかすると、
全然大人ではないし、そこまで強くもないんじゃないかって
理解していたのかもしれない。

父と母のブレンドで、好奇心のままに生きていけば、
大人の私は、壁にぶつかっていくんだろうって。

子どもの頃も、
小学校も、中学校も、高校も、今も、
最後に手をのばすのは、のばしてくるのは、
私の中のわたし。
世界で出会った人たちではない。

登場人物が数えきれないとか、
人間関係が複雑だとかで、
キャパオーバーになることは無い。
他には誰もいないのだから。

各時代を一緒に生きてきた人が、
誰であっても、何人であっても、
心から信頼していた皆が、どれほど傍にいたとしても、
この人生は、もう一人のわたしと二人きりで生きている。
二人きりで、その他大勢のみんなを、大切にしながら生きている。

そうやって生きようと、静かに無自覚に決意したのは、
色々なことが重なった、ただの偶然だった。
その家には、その部屋には、誰もいなかった。

それなのに、固く決めたあの約束と、わたしのことを、
私はこの数年、ずっと忘れて過ごした。
ドーパミン的な快楽と、身の丈以上の舞台照明が、
まぶしくて、目が痛くて、焦ってしまった。
わたしのコアなど、すべて吹っ飛んでいった。
もともと器量など無い、冬国の小さな町にうまれたわたしなのだから。

わたしが許せる、私の中のわたしが抱きしめてくれるラインまで
手をのばして、のばして、乗り越えてきたはずだった。
乗り越えたあなたを私は誇りに思って、一緒にガッツポーズをして、
ハイタッチして、抱きしめて、
このパートナーシップある生き方を愛していたのに。

思い出したのも偶然だった。
「泣いているもう一人のあなたは、なんて言ってますか?」と問われた。
思い出せないところも多いけど、確かにそうだと思った。

こんな私に対して、
あなたは乗り越えることを、望むのかな。
まだまだ頑張ってほしいと、思うのかな。

幼少期は、ただ五感を使って生きるだけで、
心をつくることができる、特別な時間。
でもそれは年齢とともに必ず分離する。
いかに理性が先行しようとも、
もとは同じ人間だったのだから、もう一人のわたしが確かに内在している。
そんな自分を見て見ぬフリをして、かっこつけて理性で生きようとするから
心が壊れたり、怒ったりしてバグを起こすんだ。

もう一度、この二人で生きる感覚を、思い出したい。
これは突破口だと思っている。
その証拠に、憂鬱な気持ちが晴れ渡っている。

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