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イベント感想(レポート):オモコロ編集長原宿×済東鉄腸 『引きこもりのインターネット大冒険 〜いつだって、ネットと語学は友達さ〜』

※イベント内で写真掲載の許可が出ています

こんばんは。雨だし寒いねえ。
こんな誰が見ても、いや生きてても分かるような低気圧の日は、大抵のことが予定どおりにはいかずストレスばかりが募るものですが、これだけは今日終わらせる。

イベントレポート。
大層な響きだな。トークイベント(とその周辺)の感想です。

※2週間アーカイブ配信もあります↓

この日、もとい今週は仕事がなかなか怒涛だったのだけど、この日だけは午後に降って湧いたいくつかの仕事を翌日に先送りし、ほぼ定時退勤して、職場から最寄駅へ向かう時も乗り換えの時も走って、阿佐ヶ谷に向かった。

こころのふるさと、阿佐ヶ谷

阿佐ヶ谷に着いたのは19時過ぎ。イベント開始は19時半。間に合った。
LOFT Aの所在は完璧に把握している。なんせ半年前まで、ここまで徒歩1分のところに住んでいたのだから。
でも実はLOFT A、行ったことなかったんです。興味はあったけどイベントスケジュールをチェックする習慣がなくて、日常に押し流されていたので。
今回、他ならぬ原宿さんと、馴染みの(阿佐ヶ谷の、いまだに通い詰めている)書店でも新刊台でチェックしていた『千葉ルー』の鉄腸さんがいらっしゃるということで、なんというか、行く動機が何重にも発生した。から行ってきた。
あんなに一緒だった阿佐ヶ谷。
離れてからはじめて、いまさら、家から徒歩1分だった場所に行くなんて、笑っちゃうよな(Vaundyが流れる)。
アーケードの商店街を歩く。
かつて磯丸水産だったところが、焼鳥屋(※これは磯丸水産の業態変更らしい)になり、今はお好み焼き屋になっている。磯丸水産オープン時点では既に阿佐ヶ谷在住だったので、そのさらに前身にも立ち会っているはずなのだけど、思い出せない。日常とはそういうもの。
でも今は阿佐ヶ谷は私の日常ではない。このアーケードの下を歩く度に(?)、私の知らない何かがある。阿佐ヶ谷は私の街ではない。阿佐ヶ谷パール商店街は私のいないところで変わり続ける。「それでも街は廻っている」ってこういうこと?なる歩鳥。ダウンタウンへ繰り出そう…。

そんな風にイベント開始前から感傷に浸る。なんだこいつ、と自分でも思いながら入場した。
店内を見渡しながら、ああ、もっと早く来ていればよかったなあと思った。目と鼻の先だったのに。阿佐ヶ谷、もとい中央線のこのあたりは独自の「カルチャー」「サブカル感」が特徴とされていて、それは中央線のテリトリーを抜けた今になってこそ、何となく輪郭を把握できている気がする。
10年前からここに来ていたら、通っていたら、自分の今も違っただろうか?そんな未来もあったかもしれない。たらればだし、通っていたところでさして変わらない、ということもあるのだろうけど。自分を構成する成分がわずかでも違ったかもしれないという想像。「分岐」というものを妙に実感した。

角ロックとミックスナッツを注文して開始を待つ。
手持無沙汰なので、『仮面の告白』を読み進めていた。久方ぶりに浴びる三島由紀夫はとにかくすごい。15歳頃に読んだ時とは自分の価値観が違うから本当に新鮮だ。わけわかんない美意識も性的な興奮も陰鬱な情緒も、「大人」とか「男性」そして「天才」とか、諸々の要素が自分にとって未知だったために、すべて真に受けていたというか、「そういうものなんだ…」と、ひたすら受け身の姿勢で読んでいた。
でも私も大人になり、いわゆる常識というものを身につけた。学校という狭い世界が終わり、多少は辛酸を舐めたり、この世にはいろんな人、どこまでも感じやすい人もどこまでも鈍感な人もいるのだということも知り、読む小説家の範囲を広げたりもした。そんな今、三島由紀夫に持つ印象は「わけわかんない」であり、「わかる」であり「やばい」であり「かわいそうに...」であり「ウケる」だ。

三島由紀夫の話はいまはいいのよ。また今度。

イベント本編

席順を考えたら原宿さん→鉄腸さん、の順で登壇しているはずなのだけれど、記憶の中では逆の順番で袖から出てきている。
さて、この日のイベントタイトルは
オモコロ編集長原宿×済東鉄腸 『引きこもりのインターネット大冒険 〜いつだって、ネットと語学は友達さ〜』

あくまで著書『千葉からほとんど出ない引きこもりの俺が、ルーマニア語の小説家になった話』について掘り下げて語るのではなく、おふたりの「(元)引きこもり」「インターネットを手段として今に至る」という共通点をもとに、パーソナリティを掘り下げていくような趣旨のイベント(多分)。

のっけから「ゆる言語学ラジオの人とか(登壇者側に)いて欲しいですね」と、原宿さんの口から好きな番組の名前が出て、さっそくハハハと笑ってしまった。
原宿さんの思惑で、会場がとんでもない言葉で乾杯をさせられそうになる。いや、した。

鉄腸さんがルーマニア語に嵌まっていくきっかけはある1本のルーマニア映画だったということで、まずは映画の話題に。
ルーマニア映画(調べたら厳密にはルーマニアとスウェーデンの合作らしい)『雪の峰』がおすすめという原宿さん。当然鉄腸さんも鑑賞済で、ここでひと盛り上がり。「男からしてもきつい男らしさ、家父長制とか権威性とかそういうものの話」と形容が合致していたので、初対面らしいながらこの二人は気が合うのかも?と思ったけど、さっきちょっと調べたら世間的に概ね同じ捉え方(だしきっとそれが正解)ということで良いみたいです。Netflixで観れるらしいから、時間と心にすげ~余裕があるときがあれば観てみるかも(ネガティブな映画ゆえに消極的)。

ルーマニア大使館はほんとうに鉄腸さんを捕捉した方が良いんじゃないか。親善大使になってほしい。そしたら俺は古参ぶるよ。

以下、箇条書き。

・ルーマニア語の単語学習ノート
ほんとうに普通に大学ノートに順にみっしり書き込まれていた。その意味ではなんの工夫もアイディアもなかった。人ってこんな風にただ知らない単語の情報を書き連ねていくだけで身につけられるものなの?、しかも、そのノートはルーマニア語専用というわけではなく、スロベニア語やその他の欧州言語も一緒くたに記録してあるらしい。そういうのが何冊もある。

・これやってる俺カッケー
ノートをスクリーンに投影させながら(だった気がする)、鉄腸さんは「これやってる俺カッケー!って思うことをやりたい、というのがすべての欲望に通底するもの(やや意訳)」と言っていた。
あ~~シンプル。それで良いんだよなあ。
この後のトークテーマ全体に当てはまるけど、本当に、つくづく、自分で自分に「条件」や「成果」を課す必要はなくて。本当は。趣味ってそれでいいんだよ。それが趣味なんだよ。って「趣味」というものを定義するのもまた違う気がするんだけど。
誰にも求められていなくても、やらずにはおれない。やっている自分がその瞬間幸せであるもの。酔えるもの。
まずはトークイベントの感想を書くべきだと思うのでこの後の項目でこのくだりについてしみじみします。

・Messengerで生まれ直した男、鉄腸
MessengerはFacebookのDM機能みたいなやつですね。
大学生活も就活も失敗して、ずっと自己嫌悪の中にあった。卒業後、引きこもって映画を見まくっていた彼の前に、ルーマニア映画があらわれた。世界が変わったと。そこから「よくFacebookで4000人に申請送ったな!」って、原宿さんでなくてもそう思うだろう。この後のトークで鉄腸さん自身の「突き詰め力」みたいなもの自体が高いのはなんとなく察したけど、そうまで世界を変えたってことなんでしょうね、その映画が。そういうものとの出会いはすごい。出会っていますか?そういうものに。出会っているかもしれない。

・原宿さんにとっての「これを続けてたら幸せ」というものは大喜利
え、そうなの?
まさか大喜利がそこまでのライフワークだったとは思っていなかったので、単純にちょっと驚いた。

・クローン病になったから科学書を読んでいる
by鉄腸さん。この人、そもそも知的好奇心が半端ないんですわな。そして心に柵がないというか、自縄自縛がないんだ。

・日本の映画だったらアニメ映画が好き
鉄腸さん。やっぱり東欧映画が好きだけど、あえて日本の映画で挙げるなら、アニメ映画に好きなものが多いらしい。
『ミュウツーの逆襲』が反出生主義的な文脈で好き。それは結構わかる。大人になってからあれ見ると、つくづくエゴを感じるよね。ミュウツーといえば、ハリウッド映画の『名探偵ピカチュウ』にも出てくるけど、あの世界線、『ミュウツーの逆襲』と同じなんだということが衝撃だった。劇中で「●●年前にカントー地方で確認されたミュウツーが…」みたいなことを言ってるんですよ。人工ポケモンだから必然的にそういう経緯になったのかもしれないけど、「え、お前さん、人間のエゴに巻き込まれすぎ…」とミュウツーがあまりにも不憫になったのを覚えている。それでもミュウツーは人間に優しい。そこが『名探偵ピカチュウ』の一番のスペクタクルだ。
話が逸れた。鉄腸さんは他に「ガンダムでいうと『閃光のハサウェイ』の頃のアンパンマンの映画が良い」と言っていた。タイトルが思い出せないときの記憶の仕方のあるある。深夜アニメの最終回の話といい、周辺状況で記憶して語る感じがなんか良くて、賞味私のいちばんの鉄腸さんファンポイントかも。

・今はルクセンブルク語がいちばん好き
もちろん鉄腸さん。ルクセンブルク語についてめっちゃ熱く、すごい情報量で語ってくれた。ルーマニア語はもはや好きとかの域ではないらしい、日常だから。
イベント中、原宿さんがずっと「ルクセンブル」って言ってた気がする。気持ちはわかる。アルファベット表記だとgだし片仮名なんてしょせん当て字だから、やみくもにが正解だ、と主張するようなものではないのだけれど。キーウ・キエフとはまた違う話だからね。
ルクセンブルク語のモチベもやっぱり「話者が少ない言語を喋れる俺カッケー!」らしい。とはいえ、それでシンプルに行動に移して没頭できるのは、また別の能力も必要ではある気はする。

・ネットはいいぞ~~~~
これはFacebookで4000人のルーマニア人にFriend申請送ったくだりでも言ってたけど、せっかくこういう時代だから、利用していこうという話。千葉から出ずに(海外には行ったことのないまま)ルーマニア語で通訳翻訳をこなせるようになって、著書も出版されている方が言うと説得力はすごいね。再現性は、うーん、やっぱり、ないけど。でも、姿勢には本当に学ぶものが多い。まじで、いちサラリーマンが家からスマホだけで動画をあげたり、バーチャル存在としての人格をつくったりできる時代だからね。鏡写しの不自由や社会の世知辛さもある分、こういう時代の恩恵には、乗っていかんと損だよなあと思う。恐れるな!

・お笑いは「春とヒコーキ」がお気に入り。
「千葉ルー」出版は、ぐんぴぃさんのあり方を目指したとこがある。
すみませんあまり春とヒコーキさんを存じ上げないのであれですが、誤解を恐れずにまとめるならば(まとめる際には誤解を恐れろ)、突き抜けて力業で文脈を壊せ、みたいなポジティブな意志を見習った、ということだった。んじゃないかな。

・量に対する信頼
ひきこもり時代はやっぱり、病んでいたところはあったらしい。
虚無感に襲われたときにはどう過ごしていたか、という参加者からの質問。「復習みたいに映画を観ていた」という表現が『千葉ルー』にもある(らしい)のだけれど、大きな負の感情には結局、何かをぶつけないと対抗できないから、量で圧倒していたとのこと。ルーマニア語もそうだし、映画を5本観たり、文法書を読んだりして過ごしていたと。その結果として今、量に対する絶大な信頼感がある。うーん。量を純粋に信じられるのは強いな。自分も高校生の時に受験勉強は量をやったけど(コミットしたことの例がいつまでも受験勉強なのがつらい)、実体験がそれくらいだから、学校や家庭の支援とか環境とか、他に恩恵を考慮できる要素がありすぎるんだよな。
それ以外に「量をこなした」心あたりがない者の限界。なにかひとつでも継続していればねえ。あ、いけない。つらい。ここにきて痛感する「継続すること」の大切さ。30過ぎてからそればっかだわ。つれ~~~。でもそのつらさに立ち向かわないと道は、扉は開かれない。光は差さない。生きることの痛みってそうなってからが本番では?

・引きこもりの時間感覚
鉄腸さんと原宿さんの共通点であり、今回のイベントの主題にもなっている「引きこもり(だった)」という経験。これは私は完全には体験したことはないけど、引き伸ばされた時間の中でふいに、中1の時に号泣したアニメの最終回とか、そういうものがふわっと思い浮かんでいたのだという。それで気が付いたらすごい時間が経っている、とか。ちょっと怖い話だ。音にも敏感になっていたらしい。ひっくるめて、心的ストレスの強い極限状態って、やっぱりできれば体験はしたくない。想像しただけで胃が荒れる。
でもきっとそこから萌す何かもあるのよなあ。

これを書きながら、鉄腸さんのnoteを発見した。
覗いてみると、短編の読み物をすごい勢いで書いていた。おいおい。インプットや作品批評だけじゃなくて、そういうアウトプットもできちゃうんかい、と思ったけど、そうだった、この人は語学オタクかつルーマニアで小説家デビューしてる人なんだ。そしてそれをも継続してるわけね。

やべーな。生きてるとどんどんすごい人、偉大な人を知ることになる。
悪い意味でやべー奴は認識した後に一瞬「ヒェ~~恐ろしいものを見た」と思ったら忘れてしまうことができるけど、良い意味でやべー人たちの存在感は、コンプレックスとして降り積もるみたいなところがある。一方的に心の師と仰ぎ目標とすることで、時には自分に良い影響をもたらすけれど、時に心の負債になる。『映画を早送りで観る人たち』で、現代の若い人は情報化した社会でいくらでも「偉大な同年代」を認識できてしまうからこそ、自分も何かを突き詰めている「オタク」になりたいと思うのだ(かなり意訳)、というような言及があったけれど、そんな感じ。何者でもない自分に震えるね。

ようやくこの記事を書き終えそうな今日(4月15日土曜日)も、ひどい低気圧のせいかそんなようなことに思考が持っていかれてしまっていたのだけど(運動してお風呂入ったらちょっとマシになった気がするからみんなも無理のない範囲で体を動かしてしっかりあったまろう)、この痛みと向き合いながらやれることをやるしかない。ウワ~~~生きてるねえ。光太郎(高村)、僕の後ろに道は見えるかい。

鉄腸さん、来週は下北沢でイベントみたいです。B&B、知らないや。
阿佐ヶ谷と下北沢はなんとなく親戚みたいなところがある、という偏見を持って生きているけど、実のところ下北沢のことは全然知らない。ホームページ見たらめっちゃ気になってきた!

そんなトークイベントでした。
イベントらしく、抽選プレゼント会とサイン会を行って幕を閉じる。
抽選は、500円単位の飲食物の注文ごとに番号の書かれた券がもらえて、鉄腸さんたちが選んだ番号の人は出版元の左右社のおすすめ本セットがもらえるというもの。桝野浩一さんの短歌集は普通にほしかったから当たれ当たれと思っていたけど、まあ当たりませんよね。あたり番号連発してた人(もちろん1回のあたり以外は見送り)はたぶん、モエ・エ・シャンドンを差し入れされた方でしょう。
サインはしっかりご両名からいただいた。

ここで思い返しても恥ずかしいのが、自意識。
原宿さんにサインを書いてもらっている間、何を話そう、と考えて真っ先に浮かんだのは、お子さんの卒園のことだった。で、その話題で2,3の会話のキャッチボールをしたのだけど、直後に会場のお手洗いに入っていたときに、もうひとつ、どうしても伝えたいことが思い浮かんだのだ。
その日、原宿さんはイベントの前に「編集長日記」を更新していて、その中で高円寺の銭湯を褒めていた。
銭湯。
伝えたい。阿佐ヶ谷駅北口の天徳泉も良いですよ、と。
そう思ったらもう伝えないでは退場できない、と思ってしまった。お手洗いから戻ったらファン(?)っぽい人とお話していたので、逡巡したけど、微妙な距離のところに突っ立って待ってみることにした。
ああ、この、接触チャンス待機感。自分で自分がいたたまれない。
待機時間(仮)は実際のところ1分もあったか分からない。最後にひとり控えていたサイン待ちの方にサインを終えて、壇上を立つタイミングで早口に伝えた。天徳泉もおすすめなので機会があれば是非、という旨を。それだけ!では!みたいな感じで。
あ~~~。いたたまれない。ダルいファンムーブをした自分に、自分の自意識がつらい。
いやでもこの辛さは、前述の生きる辛さに比べればなんて軽度なものか。気を確かに。
まあ、心の中で「ウワ~~~~~~~~~!!!!!!」と叫びながら、駅前の本屋へ走りました。走らずにはおれず。片思いの子に告白した中高生ってこんな感じですか?は?何様のつもりだ。

イベント記録はこんな感じ。たくさんメモを取ったから、記憶が新鮮なうちに記録ができて良かった。
あとで読み返すのが楽しみ。自分の滑稽さって自分を救うよね。

石ころとして

私は歌うことと書くこと言葉にすることが好き。
歌うことは主観的にそう思っている。すぐ歌い出しちゃうし。
言語化については生活の中でじわじわと相対的に感じてきたこと。心のひっかかりを言葉に出したいとか、コンテンツの良かったところを、あるいは汲み取れなかったところを言葉にして自分の外に出したい。そして、素晴らしい文章に触れると、「うまくなりたい」と思う。
かといって歌も文章も、自分で自分には点数をあげられない。上達、わかんなくね?「うまくなりたい」ってずっと思ってきたけど、「うまくなった」ってどうやって実感するんだ?発信するしかないんじゃん。←ということに本当の本当に最近になって気付いて、少しずつ実践している。歌はカラオケアプリ的なところにたまに置いて、文章はこうやってnoteに置いて。

でもさ~~出したところで評価なんかされない。評価というのがいわゆる「バズ」のことを指すならば、程遠い。どちらも30イイネにも程遠い。
そして何より、巧い文章、自分が書けないような文章を目にしたときに、感心するだけで終われない。悔しさや恥ずかしさが萌してしまう。歌と文章に対しては、いつもこの仄暗い感情を持ってしまうことに気付いた。これらへの執着はきっともう一生持ち続けていくんだろう。

おそらく社会的には(報われる力量も縁もないから)報われない「好き」との付き合い方、心の置き方を悩んでいた矢先に、鉄腸さんのシンプルな欲求を聞いて、なんだか気持ちが軽くなった。まあ鉄腸さんは能力的にもつきつめて、出版まで達成されているわけですが…。「他人からどう思われようと、自分のここは変わらない、変えられないんだなというもの」、これはもうお手上げ状態で受け入れて、臆さず発していくしかないんだ。傑作である必要はないのだから。それは自分の願望であって、誰にそれを望まれているわけでもないのだ。私は石ころだけど、石ころはすべて唯一無二(原宿さんがイベント中とりあげていた、岸政彦氏『断片的なものの社会学』の一節から)。



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