見出し画像

信じられないという理由

さて。さてさてさて。

HSPだ感受性だについて触れるに当たり、よく周囲から、
「にわかに信じがたい、あり得ない」
そう言われてきた、という話しをしてるわけですが。

そこについての深い部分。
これを話してないよなぁ、と思い至っただけでなく。
そろそろ、あまりに度が過ぎてるけど、出来てしまうことを表に出しても良いんじゃないか?という気持ちも出てきたので。

そういう部分を書いてみようと思います。

まぁ、注意点は書けばいいよね、うん。

そして。
信じるか、信じないかは、あなた次第です。


大事なこととして

基本的に、目に見えてるものはあまり重要視しません。

それは何故か?

だってもう、現実として表に出てるじゃん?
そんなの判断材料にならない。
判断するまでもなく、結果として出てるから、見聞きできる物。

ましてや、昨今では、話題性という形
事の真偽や正確さとは違う”多くの人に受けて、多くの人が扱うことで多数派が形成される”という、真偽不明な情報の提供がされてる

要は、ウケさえすれば、正確さはそっちのけでもいい。
そういう意識はあると思います。
それは何故か?
農業なら農作物、製造業なら製品という、提供することで利益を生むもの。
それに対して、情報すらもそういうものとしてしまってる社会だから
、です。

それに対して、目に見える物を集めることで、ひき逃げ犯を追い詰める。
そういう、警察が行う捜査なんかはまた違います。
目の前にある現実としての証拠を集めて、それをつなぎ合わせるだけでなく。
証拠として拾った破片の形状や刻まれた模様から、ライトのカバーのかけら一つで車種を特定するに至る。

ただただ目に見える部分だけでなく、作りや形状という”深く切り込んだ部分に着目する”からこそ、特定に至るというような。

そんな感じです。

だからこそ。
可能性というものを自然と追うだけでなく、相当数の可能性を内側に抱えてたりします。

実はほとんど出してないのですが、カウンセリングでも指摘されたんですよ。

「相当に可能性を抱えてる、それこそ抱えすぎとも言えるほど」
植物の根っこが、伸びた所から派生がうまれ、更に伸びて派生というような図を書かれて、そう言われました。

うん。

なんで根がそんなに伸びてしまうのか?

それは、重要な水分や栄養分を吸い上げて生き残るため、なんですよね。

そういうのを人としてやってる。
だからこそ、にわかに信じがたいあり得ない、ということにもなるし。

やろうとしてやってるのではなく、勝手にそうなってしまう。
それこそ、文章で書くと段階を踏んでるようで

一瞬で結果に至ってます

ただ、分からない人に説明するには、噛み砕くだけでなく。

段階を追いながら説明する必要があります。

なので、文章にすると、まだるっこしさがあるような、段階を踏んだ話になってしまうだけで、個人の中では必要がないことなので、飛び越えてます。

そうしなきゃ、情報量が多すぎて処理できないんだもん。

ということで、今回も長くなりそうだなぁ。
とほほ・・・。

あくまで現状の色々

パンデミックにしろ、世界情勢でのぶつかり合いにしろ。
歴史も含め、見てれば気づけるような話は点在してるし、それを押さえてたのなら。

「なるべくしてなってるだけ」

です。
騒ぐのがアホらしい。

大きな地震や水害の様に、突然襲ってくる災害も同じくです。
事が起こったから人員派遣だ、対処だになるわけですが、前もって配置しておくと”人件費”がかかりすぎます。

だから、対処が事後にしかできない。
事前の準備をすれば、税金のムダだなんだと騒ぐ人もいるので、そういう事が出来ないだけでなく、配置された人も暇を持て余すし、訓練しかしないようだと、それが年単位で続くようなら不満がでてしまうもの。

なので予めの準備は難しいですし、事後の対応になる=どうしても手遅れが発生する。

何でこういう所にきづけないの?
何で騒いでるの?

ほんと、バカバカしいです。
コメンテーターとか、無用の長物。
それこそ、事前に配置できるような人件費や設備として徴収したほうがいいんじゃないですか?という感じです。


実際についての話

一気に飛ぶときは一気に飛びます。
可能性を追う=考えるまでもなく、目にした、耳にした瞬間に即座に行動してしまうほど。

それが、余りにも過ぎてるので「気を遣いすぎ」という形にする。
無意識下でアイツが特別おかしいにしてる。
そういう可能性というか、素振りはあります。
個人の周囲にいる人達は。

だからこそ「気付けない、気づくのがおかしい」っていうんですよ。

目で見て、何がどうなって、それがどんな影響を生むのか?を細かく文章化するのも、そういう人たちのほうが圧倒的に多いので、説明を要するからやってるだけ、です。

目で見ればわかるから。
そうなんですよ、既に行動を起こしてます。
しかも自然体なので、周囲から指摘されないことには、やってしまうのが当たり前。そんなレベルです。

例え話を用いるなら。
台風についての事前の情報があるだけでなく、感覚的に今回はアカン!ってなるので、事前の準備を先に済ませて即座に動けるようにする。
こういう場合だと、命令違反をしてでも、先んじて動く事になれば、感じ取ったままの事が起こってしまうので。

自分としては「ほらやっぱり」
周囲からは「ありえない」
どうしても差が生まれるんですよ。

でも、コレは例え話として、です。
実際については、相談上手という部分。
話しを聞いてるだけなのに、そこより踏み込んだ所に「多分、恐らく」と言いつつ、一致してることで相談相手が驚いてしまう。

そこが、実際としての出方の話になります。

だからこそ、ね?

「いや、自分でも本当に不思議なんだけど。昔から自然とそういう事になってしまうんよ・・・」

自分ですら、信じがたい行動を取ってしまうし、行動してる時には「必要なこと」なので、おかしさに気付けない。

おかしいだ、ありえないだと、周囲は好きなだけ騒ぎます。
でも、現実で見聞きしてるからこそ騒いでる割に、いざとなると、相談には乗ってくれません。これは100%そうです。今のところ。

好き勝手に騒ぐ=ありえない、おかしい、と。
言われる側としては、現実として発生してること。
否定したくても出来ないほどに「脳」という部位で様々に発生している現実なんですよ。
でも、周囲は「自分たちにはできないから」と好き放題騒いで、否定につながる言葉をぶつけてるのに、そんなの知ったこっちゃないと言わんばかり。

実際の生活の中では、説明するだけでなく。
その説明をもって「こういうことが起こるよ、多分」と言ったことが、ヘタするとその日の内に、
「ほらね?言ったとおりでしょ?」
と、まんま実現してしまい、相手は相当に困惑だ狼狽だをしてる様をみせてくれる、という経験すら既に何度かしています。

まぁ、ね。
最悪、自分自身のこととして何度も経験してるけど、実際に現実として事が起こらないことには・・・。

「あー、あのとき感じたのは、こういうことだったのね・・・」

自分すらも気付けない事もあるあるなんですよ。

そういう部分もあるので、「まず、自分自身が疑う。結果が見えてくるまでは必要以上に触れない言わない」

そうやって自衛もしてるのが実際の話です。

うん。

とにかく”感覚的”

幼い頃から、幼稚園の時点でも。
まさに「感覚的」です。
感じ取った時点で分かることなんてのは、目で見て、耳で聞いて以上に、既にそういう状態になってる、そういう行動や言動をしてるというものしか分からないです

時折話す、普通に勤務してた頃の話。
集中してるようなのに、先んじての配慮をしてしまい、周囲を驚かせるというのがそんな感じ。
”話にかまけてるばかりで、動いてもなければ、作業が進んでない”
たちんぼで、話しをしてるだけなのがまるわかり
なので、”少しでも手間がへるように”と動いてしまった結果、「何で気付いてるのか?気を遣うのか?」と。
そういう事になるだけなんですよ。

でも、そうじゃないこともあります。

余り話せないといいつつ、何度か過去の記事でも書いた、母だけに限らない死期についての話。

話しを聞く、電話がなる。
そういうアクションがあるだけで、そこを飛び越えて起こりうる先の事を感覚的に掴むこともありまる。

まぁ、こういう感覚的なことは少ないケース。

基本的には、目に見えて、耳に聞こえてという感じで、すでに現実の中に、ひき逃げ犯の車のかけらに例えられるような、小さなヒントを感じ取ってしまう事が殆どです。

それが余りにも小さいというか。

屋外でのガス漏れ、化学工場という場所での、可燃性ガスを扱う加熱炉を点検してる時に気づく。
においとしては雑多。それどころか、漏れて無くてもガスを使用してるだけでなく、工場の稼働も数十年なので、ガスの臭いが染み付いてしまってる。

そういう環境なので、普通は気付けない。

でも、ピクっと、ね。
一瞬であるが故に、感覚的。
でも、これは漏れてる状態、その臭い方だという判断に至ってしまい、漏れてる場所を探し始める。

しかも「空気中に臭いの筋があるようなイメージ」とか言いながら、臭いを追いかけるんですよ。

そりゃ、そう在らない人からすれば、いくら現実とはいえ、
「お前は犬かよ!!」
になるのも、ごもっとも。

犬を飼ってた頃の話。
もう20年以上前のことですが、その時の光景がはっきり思い出されるほど。
仕事に出てる母が帰宅してる。
同じ車も通るのに、明らかに母が運転してる音だと聞き分けるだけでなく。
母が大好きな犬に「お母さん返ってくるよー」と教える。

「え?ホント?」
と言わんばかりに、犬も聞く耳を立てた結果音が聞こえる。
「やったー!」
と言わんばかりに犬が喜びの感情をだして、私の方を見ながら、まだ?まだかな?という感じで一緒にまってると、数分もしないうちに母が帰宅する。

うーん。
書いてみて思うわけですが、自分の事なのに、流石にこれはどうかしてるでしょ?(笑)と、自分だからこそ呆れるほどですね。

なんでこんな事が出来てしまうのか。

余りにも些細どころか、犬よりも先にって、ねぇ?なんですよね。


日常生活の中であるほど

そんな感じなのですが。

改めて言われて意識してしまうと出来なくなってしまう。
こういう事も多いです。

そもそも、日常生活の中でのふとした瞬間。
そういう時こそ、なんですよね。

また、言い換えるなら「やらなきゃいけない状態、いけない環境」からの圧力を感じてると言わんばかり。
やれ、という命令口調があふれるのも合わさるだけでなく、やれと言ってる側も期待や緊張をしてしまってる。
そういう、細かすぎるが故に、本人が意識できない、気付けない所を、感覚的に感じ取ってしまう。

そういうのも否めないです。

だからこそ。
「感覚処理感受性とか、よくもまぁ、こんな的を射たと言わんばかりの表現を思いついたよねぇ・・・」
と、感心もするわけなんですよ。

幼稚園時点での、気付いてフォローしたという話もそんな感じです。
「なんかおかしい感じが・・・」
と、顔をあげてみると、困ってる子がピンポイントで浮き上がるかのように見えてしまい、気付いてしまう。
とはいえ、そういうのを対処するのは先生のお仕事。
でも、先生を見てても見回してるのにその子に気付けなければ、近くにいる他に困ってる子の対処に向かってしまう。

んじゃ、話だけ聞いてみよう。と、行動をした結果、面倒見が良い子と言われる行動をしてしまい、その子のフォローをするだけでなく、先生が気付いて声をかければ、

「○くんが気付いてくれて、おしえてくれたの!」
と、先生に伝えて、私が褒められる、と。

でも、これまた不思議なのですが。
気づくだけでなく、その他の要因も把握した上で、自身が取捨選択しての行動であるせいか。

「だって、気づいたから」

褒められる実感がわかない。評価される実感もわかない。
不思議と「自分に出来る事、出来たことでしかない」という感覚しか湧かないんですよ。

そういう部分も深くて細かいというべき、なんでしょうかね。
不思議と実感が湧かないどころか、寧ろ自然と評価を辞退してしまうことになるんですよね。


あれ?想像以上に・・・

ここまで書いたけど、まだまだ序盤というか、長くなりすぎてる!!
ということに、気付いて違和感が発生しました。

なので、書きながら、試行錯誤する。
脳内ダブルコアPCと自分で言うほどの並行作業に至ったので。

続きは別で、また書こうと思います。

こんなはずじゃなかったんだけど。
でも、詳しく説明しだすと、やっぱりこう、伝わるか否か?に意識が行ってしまい、言葉数がふえてしまう。

この辺が、成人知能検査をした際にされた、伝える能力、言語性IQとしての計測の外側たる所以とも言えなくないですが、まぁ、ね。

長いと、読むの疲れますから。

一旦切り上げようと思います。


あとがき

そもそもとして。
自分の事だけど、真剣に向き合うほど。
「おかしすぎるわ!大概にしろよ、自分!」
と、ツッコミを毎回のように入れるほど、です。

気づく側としては、そんなこと言われても気づくから・・・でもあるのですが。

こうして文章化すると、より客観的に見る事ができるので、周囲の反応についても、
「そりゃ、そうなりますよねぇ・・・・」
にもなってしまうんです。

そうあるからこそ、矛盾に気づけるっていうんでしょうかね。
だからこそ、大手を振って表にださず。
出来ない人のほうが圧倒的多数どころか、話した所で、病院ですら「普通の人、大勢の人」との比較を持って、否定的ないわれをしてしまう。

なので、なかったコトにして、触れずに過ごすことになるんですよ。

じゃないと、ね。
「実際に目の前で行動したのを目にしてるからこその、否定の言葉や感情をぶつけられてしまう」

それが、普通。それが当たり前なので。

周囲から、ネガティブな感情受け取りたくないし、それで周囲はカッカしてるのを「人の振り見て我が振り直せ」と言いもするくらいですから、自分がやってはいけない、と。

自制や自戒もする。
そんな感じなのですよ。

周囲や他者の方が、先んじて「普通じゃない!」と声高に言うのに。
「普通じゃないのはダメだ!」と抑え込もうと、多数派として圧力をかけてくる。

それに対して。
親すら受け止めきれない=1人で立ち向かわなきゃいけない。

それを身をもって経験してるので、そういう人は生まれてほしくない。

個人としては、ね?
「幼稚園児という、幼い頃から、そうやって1人で戦ってきたので」

当時の大人たちが受け止めきれないだけでなく、その受け止めきれない不得手を怒りに変えて、私にぶつけてくるという、ね。

どっちが大人なのか・・・。

ここが、個人としての精神的な病みの一因。
30年以上同じ状態を、何度説明しても、何度訴えても。

「普通じゃないから」

目の前でやってしまおうが、抑え込まれたが故の病みだったりします。

そして、正直に言いましょう。

心理学上の感覚処理感受性。
その、感覚処理感受性が高い人=HSPという扱いが出来ずに、上辺の情報だけで流されてる人は。

恐らく、違う人が多いでしょう。

情報として、そういう話が出てくる根底に触れやしない。

見た目がニラだから。
ちゃんと調べもせず口にしたのは、水仙の葉っぱだったので食中毒になってしまった。

そういうのと、変わらないですから。

上辺だけで判断するのは、危険すらもありうる。
そういう現実もあるというのを、知ったほうが良いと思います。

それでは。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?