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ぼ~くらはみんな い~きているぅ~

個人としては稀に動物に例えられたり、動物とのふれあいだったりをかいてるわけですが。

本能だけでなく、そういう感受性も持っとるで?動物も。

いや、人間も含めて動物だからこそ、目、耳、鼻と生きるために駆使してるんですよ、ね。

うん。

・・・・・・・・。

まぁ、いつも通りです、ハイ。



動物だってホラ

目、鼻、耳、口がありますし、各感覚の反応もみせます。

それどころか、触れると言う部分ではいくらペットでも下手すれば、飼い犬に手を噛まれる、になるんですよ。

なので、触覚も持ってるとも言えなくて。

そういう部分で色々感じ取ってるだけでなく、それを生存に活かしてるという部分は動物のほうが、ね。その動物ならではの特徴は生存のためみたいな感じになってますからね。

クマなんかも、単純に食べ物への執着が強いだけでなく、犬以上に鼻が利く動物だそうで。

過去にあった獣害事件についても、その様子が伺えるような内容だったりもします。

また、犬は人に懐きやすいのもあってか、飼ってみると相当に喜怒哀楽を表現しますし、嬉しい時には嬉しさが突破しすぎて突っ込んでくる、頭突きをくらうなんてことも。

ホースセラピーについても色々触れてみると”本能的”という扱いになってることも多いですが、馬が持ちうる感情部分やその辺での感受性がそうさせてるのではないかな?と個人的には思います。

うん。

動物の場合は、生存本能や進化、生存のために活用という部分があるので、人間とは違う!と言われそうですが、

何がどうあれ、見る、聞く、臭いをかぐという部分から、何かを感じ取ってる、影響を受けてると言う部分

は、変わらないと思います。


個人の経験として

まぁ、何度か書いてますが、お前は犬か!と良い方に働いても、おおよそ人の外と言わんばかりに臭いに気づくことがあったりします。

犬を飼ってた時も、地方在住なのでマイカー生活。なので、帰宅する車の音への反応が時に犬以上だったりすることもありました。

そういう、動物との生活、触れ合いの中でも色々感じてるというか。

本能として扱ってる部分には、人との違いを意識して敢えて本能にしてしまってる部分がある

と思いますよ。別な言い方をすれば、

人間は知性と理性を持っている動物

というような表現ですかね。

もし、進化の先として人間が生まれたのであれば、人間が持ってるものは動物も持ってる物だし、そもそも特徴として挙げられる部分以外は、おおよそどの動物も同じ物を持ってて程度が違うだけ、なんですよね。

自分たちが頂点に居るんだ、と言わんばかりというか...。個人的にはこう言う部分が人間の傲り、傲慢さだと思ってたりもします。

まぁ、そういうネガティブな話は置いといて。

基本的に不思議と好かれる方だったりします。うん。

家で飼ってた頃なんて、私と母の接し方は同じだと思ってたら、母からすれば全然違うですし、セキセイインコ飼ってた頃は”何故か私だけが声真似、喋り方の真似をされる”という事も。

この、インコの話も私からすれば同じ接し方してるはずなのに、なんですよね。でも、母の声真似や喋り方の真似をした事は無いですし、その頃は祖母も同居だったので、祖母の言い分としても「私:真似される、母:一切ない」という感じで。

結構不思議なんですよね。


インコの真似の話

聞かされた時は驚きましたよ。

だって、私がいると何でか一切しないんですよ。自分の部屋にいる状態で姿が見えない程度ではその様子を見せないらしく。

何かしらあって出かけて家に不在、という状況にならないと真似をしないとも言われてしまう始末。

なぜだ、インコよ...。

出かけない限りそうあらない=私は知る由もない

そう言う状態でもあるので、いくら感受性が高くてある程度は予測だ可能性だ言っても、流石にそれは無いだったんですよね。でも、母から聞かされただけでなく、既に同居してた祖母からも、そうあると言われ、

なん...だと......!?、する事になったわけです。

また、犬を飼ってた時と同様だと、母から言われたのが、

接し方が人との接し方と全く一緒で、何だか兄妹みたい(笑)

それ、犬の時も言ったけど、あんたもかわんないじゃん!って反論しても、全然違うし...というところから、ダメだしでされたインコのモノマネ。

うん。

ただ、こういう話も自分で振り返ると「まぁ、確かに自分としても人だ、動物だ区別してないからなぁ」という部分は無きにしも非ず。

感情表現してるし、少なからずそう言う部分での意思疎通というか、声をかけると反応する、どこに行くのか理解してしてるのか肩や手先に止まって目的地を待つという行動も見せてました。

そして、こういう言い分も、私としてはそう感じ取ってる、なんですよ。

目に見えてそう、様子を観察してみてそう。

そして、私がそう言う行動を取るからなのか、感じとって学習して、声をかけると全部は理解出来なくとも、インコ自身が好んでる場所については覚えて反応するという感じでした。

犬に、散歩にいくよ~って声かけだけでも反応してましたし、リードと首輪のつなぎ目の金属がなるだけでも、犬の方が「やった!散歩だ!」と奪取して足元でお座りでしたし。

うん。

まぁ、チキンラーメン食べてる所に飛んで来て、丼のふちに止まった後、足滑らせて軽くぽちゃんしたくらいですしね、あの子(笑)

インコが落ちたら、マジもんのチキンラーメンじゃん!チキンは鶏だから厳密には違うけど!

写真も動画もないので、嘘くさい話だと思いますが、本当にあった話です...。

だから何だ?って話かもしれないですが、インコでもその程度の行動を見せますし、それを実際に目にしながら、居た頃の生活を全体で総括すると、

やっぱ、動物も感受性もってるよねぇ?

という話になる、という流れなんですよ。


ぼくらはみんな生きている

ミミズだって、オケラだって、アメンボだって。

そう言う歌もありますが。

実際に生活するだけでなく、私個人としては幼い頃から意外とそうあったという感じです。便宜上その動物だと区別していても、人と同じように接してたのは幼い頃から変わらない。

母方の祖父母が牛を飼ってた頃から、そうありましたしね。

田舎に帰ると、牛さんのところ行ってくる~って、牛にも挨拶しに行ってましたし。慣れてからは怖がるどころか、積極的に触れるだけでなく、餌やり当番を進んでかってでたり、その際に話しかけて牛さんおいしい?とかやりとりしてて。

そして、その頃から変わらずやってるのが、

動物であっても話す際は目を見る

意思疎通云々は私の勝手な思い込みかもしれませんが、不思議と目を見ながら接するようにしてるから、好かれるという部分も無きにしも非ずです。

また、目を見る以上、相手を怖がらせない様にと意識して自分から出てそうなトゲを抑えようとしてたのも、幼い頃から自然とで。

そこも、成長してからはイメージで大自然の中に突っ立って、自然と呼吸を合わせるみたいな事もしてたりします。

そのせいか、乗馬体験で宛がわれた馬が人に馴染めない子だったそうなのですが。スタッフさんが驚くほどに普通に接する事が出来たのかな?と、個人としては一定の仮説としての答えを得てたりします。

馬って人が必要として人の生活に合わせた改良もやってますし、そうあるからこそ人あっての馬、馬あっての人でもあるというか。不思議と魅了される部分があるのではないかなぁ、とも思います。

うん。

まぁ、その、動物を絡めてみても、結構おかしな人って言われがちですし、そこには意識的にやってる事もありますが、その感受性があるが故に成せるという部分もあるんですよね。

なのでまぁ、個人として動物とのエピソードなんかも出てこない現状には、違和感しか感じないと。

言ってしまうんですよね。


あとがき

どうしても、自身の経験だけでなく、それを記憶から掘り起こして文字化、文章化してますし、目の前で見てない以上うさんくさいだろうなぁ、と思えども。

自分から進んで”意識的に”と言わない限り、自分としての普通で当たり前をやってると、動物とのふれあい、という所からも、その感受性があるが故の色々が見えてくるもんです。

うん。

そして、これもなんていうかなぁ。

自分自身は人間として普通の生活をしてるだけであって、それを他者が「違う、違い過ぎる」を理由にあれやこれや、なんやらかんやら。

なので、自分の持ってる物って一体何なの?感受性が高いって言われるけど、その正体は?実態は?

自分が見た限りでは程度の差はあれど、同じように見る、聞く、聞こえる、感じるをそれぞれがしてるのに、何故私に対しては、幼稚園~社会人というステップアップで環境が変わっても、環境が変わる事で接する人が変わっても、

全く同じと言わんばかりに突かれるし、1対他になってしまうし、個人差としてみとめてもらえない。

なんでこうなってしまうの?

なんですよ。

で、これって知ってる人なら、ほぼほぼ同じでは?と気づくと思います。提唱される切っ掛けや動機というような話と。

自分で言うのもなんですが、類似性は高いと思います。

うん。

だからどうという話ではなく。

研究して概念としての設定なんてのは個人では出来なくとも。

持ち前の感受性を活かして、実験だ試行錯誤だ、分析、解析、追及検討と言う事も出来るハズ。

今回は敢えて、こうあるハズ論も使わせてもらいます。

そういう物なので、ネガティブ一色と言わんばかりに、自分の不得手はHSPだったんだ!は止めて欲しいなぁ、とは思います。

ポジティブだ、得手の部分はあります。

また、感受性だけで人の全てが決まるわけじゃありません。感じ取ってようが活かせなきゃだめだし、個人としては活かし方すら関係してくるのですが、それ以外の部分はそれ以外の物があります。

知識や経験、それに伴う信頼関係、人間の距離感と、色々あります。間違いなく。

なので、HSPだからとかは、勘違い甚だしいと言うか...。

そうある自身であっても、何故こうなってしまうのか?自分としての普通がどうしても人と違うと言われる、感受性が高いと言われるけど、何がどうあって、どう作用して、どうある事で、そんな違うと言われてしまうのか?

その違いも自身からすれば誰しもが持ってる違いの部分でしかない。実際それぞれが同じように見る、聞く、感じるをしてるのは変わらない。でも、そこがズレてしまう、1対周囲やその他になるのは何故?

しかも、良い部分も悪い部分も同様に違うと言われてしまう。

何が一体原因なんだろうか?

個人程度で出来るレベルであっても、可能な限り観察や、実験、分析、検討、そして追及と自然とやってる物でもあると思います。

そして、そうあるようなら動機に触れるだけで、色々見えもするし、色々伝わりもします。正しいとか間違いとかではなく。

類似性からの共感ってやつですかね。

と、長くなりましたが。

動物を通して感受性に触れつつ、何故ポジティブな話題がでないのか?

今回はそんな感じです。

それでは。

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