緊急事態という日常

東京はオリンピックを目前として4回目の緊急事態宣言。2021年、上半期も終わり緊急事態宣言期間が一年の3分の2を占めた。緊急事態が日常となり、日常は非日常となった。

非日常は日常へと変わり、「ニューノーマル」という言葉も使われ出した。このニューノーマル、新しい日常でもっともアイコニックな存在はマスクであろう。ここ最近になってようやくバラエティ番組などに出演するタレントもマスクをするようになったが、今でも感染リスクの抑制効果が薄いとされるフェイスシールドのみや、衝立を使うことでマスクをせずに会話をしている番組も少なくはない。こういったことはおそらく、有名人は顔が命というか、テレビは視覚情報が重要なため、できる限り顔を覆いたくないという発信側の思いなのだろう。(わたしは出演陣がマスクをしている方が安心して見られるが…)

しかし同じテレビでもバラエティ番組ではなくドラマに話を移そう。私があまりテレビを見ないので詳しくないだけなのかもしれないが、マスクをしている登場人物が出てくるドラマを見たことがない。有名人だけでなくエキストラもである。マスクの描写のなさは意図的といってもよいほどである。ドラマの意義というのをわたしは詳しく知らないが、そこにはフィクションだけではなくノンフィクションの要素もあるはずである。そしてこの時代のノンフィクションであればマスクが登場してもいいはずが、徹底的に排除されているのである。

 話をメディアから都市に移そう。街を歩くと大方の人はマスクをしていることがわかる。しかし唯一マスクをしていない人を見ることができる場所がある。それは風俗街である。客引きの女性は容姿を見やすくするためかマスクをしていないことが多い。しかし理由はそれだけではないだろうと思う。それは風俗店という非日常の空間の場所性である。わたしは遊郭史を研究していたことがあったが、いつの時代も色街という場所は「現実を忘れさせるような、浮世離れした場所」として描かれる。そういった中で徹底的に現実世界の、マスクを強いられている、感染リスクを想起してしまうようなマスクの存在を排除しようとするのも理解ができる。

非日常を演出するために、日常を排除するという話をしてきた。ここで話した日常とは「感染症を怖れ、身体的な人とのつながりを絶ち、マスクを強いられる日々」を指している。しかしそれは「緊急事態」だったのではないのか。

このようにいつの間にか緊急事態は日常化してしまった。それはもちろん「緊急事態宣言期間が期間外よりも長かったから」というのもあるだろう。しかしそれよりも、すぐに終わると思っていた感染症との戦いが長期化してしまったこと、それによるマスクをすることへの慣れ(習慣化)による身体的な緊急事態の日常化が大きいと思う。この緊急事態が急速に習慣化されたことで、新たな日常(ニューノーマル)となっていることは疑いなさそうである。

緊急事態が日常化していく中でテレビや風俗店は、数年前にあったさまざまな人と交流し、さまざまな場所を巡る「当たり前だった日常」を夢見させているのだろうか。たった数年でケ(日常)がハレ(非日常・祝祭)になってしまった。これから先どうなっていくのか、研究者も占い師も予言者も的中させるのが難しい世界になってしまった。予期できぬ時代、きっとこれからも人間はさまざまな因子に翻弄され続け、そのたびに次のニューノーマルがわたしたちにオールドノーマルの夢を見せてくるのだろうか。

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