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帰宅難民経験を振り返る 私の#もしもの備え

「#もしもの備え」というnoteの募集企画に参加するため、2011年3月11日東日本大震災発生時に「帰宅困難者」となった私の経験を書きます。


当時の私の状況


東京都内で仕事をしているときに地震が発生。一時的に公園に避難したのち、仕事先を16時前に出発。都外にある自宅に到着したのは深夜1時近く。道に迷わずに最短距離を行けば25キロ、所要時間約6時間の行程だったが、実際には迷いに迷って8〜9時間歩いた。

大前提・一斉帰宅の抑制


東日本大震災での混乱をふまえ、現在は「むやみに移動しない」を原則とする一斉帰宅の抑制が自治体で叫ばれている(ということを、この記事を書くために調べて今知った)。帰宅者の安全を守ることと、緊急車両の通行の妨げにならないようにすることが目的だ。

当時はそういったガイドラインがなく、「一刻も早く帰らなければ」という思いにかられていた。乳幼児を預けて仕事をしていたため、子どものことが気がかりでならなかったということも大きな理由だ。ガイドラインができた今も、もし子どもが小さければやはり帰宅を選んでしまうと思う。

反省点1 バスを待ってしまった


「帰宅困難者」「帰宅難民」という言葉すら知らなかった当時、初めての経験で歩き通せるか自信がなかったので、バスを乗りついで帰ろうとした。ところが、待てども待てどもなかなか来ない。来たら来たでギュウギュウの超満員、道路も渋滞しており、徒歩以上に進まない。

その上、歩いているときはさほど寒さを感じなかったのに、バス停で待っている間はじっとしているので震えるほど寒くて冷え切ってしまい、返って体力を消耗してしまった。天候や体調にもよるが、もしまたこのような事態に遭ったら、バスやタクシーを待つのは最終手段としたい。

反省点2 体を動かす習慣が一切なかった


私が減量目的でジョギングやウォーキングを始めたのは2015年になってから。もし2011年当時、少しでも走った経験があれば、全然違っただろうと思う。「体力が」というより「気力が」。

まず距離感がつかみやすい。「○キロ」と聞いて「あそこからあそこまでか」といつものコースに当てはめて想像がつく。どのあたりで自分が疲れるかも予想できる。

2011年当時、25キロの距離感をつかめていれば、あれほど心細く不安になることもなかっただろうし、寒空の下、一向に来ないバスを待つという選択は絶対にしなかった。歩きながら「大丈夫、トレーニングのつもりでがんばろう!」と、少しでも前向きに捉えることができると思う。もちろん、ジョギングとは靴も服装も違うし、荷物も持っているので想像通りとはいかないが。

反省点3 電話をかけまくった


家族の安否を確認するため、電話&メールをしまくって電池が消耗した。結局自力ではつながらず、途中の無料開放されていた公衆電話で連絡がついた。地震発生から2時間後くらいだったと記憶している。心配だがつながらないうちは何度もかけない。地図のためにも電池を残したほうがいい。このあたりは東日本大震災以後、多くの人に共有されていると思うが改めて。

よかったこと スニーカーを履いていた


これはものすごく助かった。道中、不安や焦りは強かったものの、足を痛めることはなかった。もしヒールを履いていたら無理だったと思う。革靴を履いて20キロ以上歩いて帰宅した知人は疲労骨折したと聞いた。道中、社内用のサンダルで歩いている人もチラホラ見かけたが、それもキツいはず。当時、お店は意外と通常通り営業していたので、靴店を見かけたらスニーカーを買ったほうがいいかもしれない。

判断しかねること 水分をとらなかった


体のことを考えると適度な水分補給は必須だが、当時はトイレが心配で飲まず食わずで歩いた。途中1回スーパーのトイレを借りることができたが、カフェやファミレスは軒並み行列ができていて、休憩したりトイレを借りたりできる状況ではなかった。体調や季節によって水分制限は危険なので難しいところではある。

まとめ・私のもしもの備えは⋯⋯


今は減量や健康、体力維持のために走ったり歩いたりしているが、2011年の経験をふまえて「これが帰宅困難となったときの『もしもの備え』になるかもしれない」ということを、頭の片隅で常に意識している。そうした意識を持つことが「もしもの備え」の第一歩となるのかもしれない。

そう考えると、私は自分が経験していない帰宅困難以外の状況に対しては、意識が圧倒的に薄いと感じる。自分が経験しないとなかなか意識を高めることは難しいが、経験したときでは遅いのが災害。

もしも、もしも私が――。

折に触れ自分に問いかけ続けていきたい。

#もしもの備え


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