ななし(中年女のエッセイ)

中年の女性です。日常のことを書いています。

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帰郷までの長い道のり 3<家>

実家は郊外のニュータウンにあり、都心まで1時間少々。高度経済成長期のにぎやかな面影は消え、今は高齢化が進んでいる。80代の父は、昭和50年代に中古で購入した庭付き一戸建てに一人で暮らしている。施設入りを強く拒み、「この家で暮らし続けたい」と言う。 庭付き一戸建て、妻、子ども2人。典型的な昭和の幸せを父は手に入れた。だが父は、幸せの象徴である家にも家族にも愛着や愛情を示したことはなかった。 毎晩酒を飲んで深夜に帰ってくる。家のメンテは妻まかせ。子育てももちろん妻まかせ。日曜

    • 帰郷までの長い道のり 2<何者>

      80代の父は人生の終わりに近づいている。そして、50代の私は社会人としての終わりを意識し始めた。 社会に出て30年近く。いまだ何者でもない。「何者かになりたい」「何者でもない」と誰が言い始めたのか知らないが、「何者」とはすなわち「有名人」「金持ち」「権力者」「他人から評価されている人」「自分が幸せと満足している人」、だいたいそれらのどれか、あるいは全部だと思う。 「何者でもない」とは若者の光と影を表現するときの常套句のようだが、たいてい40代も50代も何者でもなく、何者に

      • 帰郷までの長い道のり 1<他人>

        近所に住む80代の和子さんは、いつもお菓子や果物、たまにお手製のおかずをおすそ分けしてくれる。虎屋のようかんなど、高級なお菓子をいただくこともある。あまりいただいてばかりでは申し訳ないと思い、私からも出張先でお土産を買ってくることもある。でも圧倒的に、和子さんからいただくことのほうが多い。「気を使わないで、お返しもいらないから」と何度も言う。 その代わり、といってはあまりに些細なことだけど、地震が起きたら一人暮らしの和子さんに「大丈夫でしたか」とメッセージを送る。感染症が流

        • 50歳でようやく知った、スキンケアの基本にして最も大切なこと

          40代ごろからシミ、シワ、たるみに悩まされるようになった。それでも「年のせいだから仕方がない」と美容に無頓着だった。そんな私が五十路を前に肌のケアに目覚めた。そこで気づいたスキンケアの極意。 干からびた土地をいくら耕しても実は結ばない。 やってもムダという意味ではない。問題は手入れの範囲である。 私は「美容に無頓着」と書いたが、実際はそれまでも「それなりに」シワ対策は念入りにしてきたつもりだった。目元、ほうれい線。そこだけはこってりクリームを塗っていた。だがそれだけだっ

        帰郷までの長い道のり 3<家>

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        • 帰郷までの長い道のり
          3本

        記事

          不親切な日本人

          特急券の券売機で、明らかに困っている様子の女性がいた。海外から来た観光客のようだった。 横目で女性を見ながら、隣の券売機を私は操り、自分の切符を買った。私がスムーズに買えたのは、これまで何度も買ってきた経験があるから。初めて買ったときはやはり戸惑った。まして外国ならなおさらだろう。 お困りですか。 下手な英語で話しかけてみようか迷ったけれども、あいにく列車の発車時刻が迫っていた。英語が堪能だったら、それほど時間がかからず助けられるかもしれないけれど、意思疎通がうまくいか

          制服ってどうなの

          子どもが高校に進学し、制服を買った。冬服、夏服、体操着⋯⋯合計すると軽く10万円以上になる。靴下やバッグまで決められている。 10万円もあれば、もっとおしゃれな服を何着も買ってあげられたのに⋯⋯と残念な気持ちだ。 制服になんの意味があるのだろうと、自分が学生だったころからずっと思っていた。「学生らしく」あるため? 勉強に集中させるため? 派手だと不良になるから(笑)? 若者に地味でいてほしいなら、若者を無個性のまま縛り付けたいなら、「シャツは白、他は紺、黒、グレー、茶系で

          帰宅難民経験を振り返る 私の#もしもの備え

          「#もしもの備え」というnoteの募集企画に参加するため、2011年3月11日東日本大震災発生時に「帰宅困難者」となった私の経験を書きます。 当時の私の状況 東京都内で仕事をしているときに地震が発生。一時的に公園に避難したのち、仕事先を16時前に出発。都外にある自宅に到着したのは深夜1時近く。道に迷わずに最短距離を行けば25キロ、所要時間約6時間の行程だったが、実際には迷いに迷って8〜9時間歩いた。 大前提・一斉帰宅の抑制 東日本大震災での混乱をふまえ、現在は「むやみ

          帰宅難民経験を振り返る 私の#もしもの備え

          美容院にてその節はありがとう

          今日は美容院に行ってきた。 スタイリストさんが何人かいる美容院において、シャンプーはだいたい若手の担当だ。美容師さんはカットの上手い下手も如実にあるけど、シャンプーの上手い下手もかなり明白にあると思う。短い時間とはいえ地肌を直接触る行為。ちょっとしたことで生理的に「あ、ダメだ。もう二度と当たりたくないな」と思うこともある。一方で、文字通りかゆいところに手が届くような、安心しきって心地よい眠りを誘うような、ものすんごい上手い子もいる。たかがシャンプー、されどシャンプーだ。

          美容院にてその節はありがとう

          スギヒノキの祟りじゃ

          今週末は花粉症がひどかった。目がかゆい、くしゃみが止まらない、鼻水が垂れる、のどもイガイガ、なんだか頭も重い気がする、やる気が出ない、ひたすら眠い、だらだら、やる気が出ないから酒を飲む、そしてまただらだら、そんな週末だった。どこまで花粉症の影響かわかりませんが。 「花粉症」という言葉がなかった太古の昔に生きていたら、この異常な不快感は何かの祟りのせいだと思ってお祓いしていたかも。 厚生労働省のサイトによると、日本でスギ花粉症が初めて報告されたのは1964年。他のネット情報

          早すぎる別れ

          60代の男性の葬儀に参列した。 60代は早すぎる。とはいえ、お子様2人は立派に成人していらっしゃる。ご長男が喪主を務めた。悲しみをこらえ親族や知人に挨拶してまわり、しっかりとした青年だった。 堂々たるお子様の姿を目にして、60代は早すぎる別れだけれども、このようなお子様を育て上げることができたのだから、さぞ充実した人生だったのだろう。と勝手に故人の人生を推し量った。故人を失っても家族はご長男を中心に故人の妻、もう一人の子3人で身を寄せ合い、しっかりと歩んでいくだろう。 私

          欲がない

          ほしいものがない、わけではなく、ほしいものはたくさんあるが、自分の手の届く範囲でほしいものがなくなってしまった。若いときならコツコツお金を貯めて手に入れようとがんばるかもしれないけれど、今はもう「そこまでしてもね⋯⋯」と思うばかりで、ただ擬似的な物欲のない人として生きている。 食べたいものもたくさんある。けれど、出せるお金の範囲で食べたいものはない。中途半端に目が肥え、舌が肥えた。100%自分が満足できるものは手に入らないことがわかった。60%や50%で我慢するくらいなら、

          傘の浮力

          人生でいちばん幸せだったこと、をふと考えてみた。 まっさきに思い浮かんだのは、子どものころ雨傘で飛んでいたことだった。 昭和晩期、新興住宅地の地元には広大な宅地造成地があった。その地域はたびたび水害に遭っていたため、かなり高くまで盛り土がしてあった。 その盛り土の斜面を、雨傘を開いて駆け下りると、ほんの一瞬、体が浮くことを私は発明した! 実際は、大した発明ではないことは子ども心にわかっていたけれども、誰に教えられたわけではないのにこんなに楽しい遊びを生み出した自分に興奮し