大げさなことはだいたい間違っている。

人間根性じゃ動くことができない、ということが少し前から分かっている。
専門学校に通っていた時に、先生から結局勉強は根性だといわれた。
あまり真に受けていなかったけれど、そんなものかな?とうっすら考えていた。大学に入るまでにある程度勉強したときも、根性!と思っていたわけではないけれど、何かしらのエネルギーがそこにはあった。

環境へのアプローチというか工夫のようなものがもう少しあったのではないだろうかと思う。
確かにPCは使えなかったけれど、スマホは使えた。インターネットの世界から完璧に断絶されたわけではなかった。
また、ログを全くとっていなかった。今思うと恐ろしい話で、定期的に行われる模試に向けては勉強していたけれど、何を何時間勉強した、だから次はこれを、というような積み重ねはなかった。
最近はむしろ、何をするかではなく、何をしたのか、というログに注目している。ロギング仕事術を読んだからとかタスクシュートの影響を受けているからだろう。

ただ、そこに納得が加わっている。
仕事がある程度忙しいというか、仕事量が多くて、何から手を付けていいのかわからないようなところがある。僕のような仕事にはおそらくタスクシュートというのはぴったりなのだろう。
効率的に物事をこなす、ということが求められている。ただ、無駄も同時に大事だと思う。非効率的な行動、いうなれば遊びである。
いらないけれど、楽しいからやる、というより、楽しいとかそういうことがわかるためにも、とりあえずやってみる。そういう姿勢を社会人になってそろそろ5年目なのだけれど、いまだに保ち続けているということは、そこに哲学的な視座のようなものを感じる。

レールからはずれる衝動、という本を読んでいる。
ダークホース、つまりレールから外した人たちの分析が行われているらしい。僕もある程度レールから外れた人間なのだけれど、僕の場合はそのレールにまた戻った、というちょっと変なタイプである。
衝動の見つけ方の本には、内発的にふつふつわいてくるオリジナリティというか、本当の自分的なエキスを感じた。ただ、僕としてはそんなものは嘘っぱちというか外部環境の影響を受けざるを得ないと思う。
だから平凡の非凡を掲げているのだろう。ダークホースほど、平凡なこともない。そういうことを結構真剣に考えている。

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