なまねぐ

毎日千字程度の、そうめんのような、エッセーを書いています。読んでくれたらうれしいです。

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疲れたし、今日はnoteを書くのをやめようと思いつつ書いたnote。

書く事から逃れることはできない。 書く事から逃れたいなぁ。たまには休みたいなぁ。 金曜日だし?例えば今日更新しないで、明日の朝とかにまとめて2つ更新したほうが内容的にもいいものがかけるんじゃないか? 疲労感と開放感マックスの状態で何か語らなくても、気楽に生きていけばいいんじゃないかな。 言い訳や理屈というものは、いつでもどこでも何度でも可能である。 そしてそのすべてはしない事を応援してくれる。 しかし、我々に必要なのは、やらないことの正しい理論ではなく、やることの間違っ

    • ハッピーな記憶とともに。

      中学生の時に体を洗うのがめんどくさくて、体を洗わずにお風呂に入っていた。 今はむしろ体を洗うことが好きだ、といえるほどになっている。とても念入りに体を洗う。洗っていると楽しい。きれいになっている感じが心地よいわけではない。洗っていること自体が楽しい。 体を洗うことに関しての出来事として、何歳のころの話かは覚えていないけれど、内容は明確に覚えていることがある。 僕は誕生日が迫っていた。当時はGBAが欲しかった。ゲームボーイアドバンスという最近スイッチでもできるようになった暗闇

      • 寂しいからって、それを理由に行動することはできない。

        今日更新したら、2日連続、気軽に書いてみよう。 書くということに対して楽観的過ぎるようなnoteの画面を見ながら、更新が途切れたことを少し寂しく思う。しかし、その寂しさの意味はわかってはいない。 寂しさを感じることが人間の主要な働きの一つではないかとさえ思える。生半可なAIでは、寂しさを噛みしめることはできないだろう。 最近家でテレビを見なくなった。朝の忙しい時間帯ではNHKがよく流れていた。おそらくこれは母親がCMを嫌っているせいだと思われる。 その流れで朝ドラが流れてい

        • もうインターネットは自分の居場所ではないけれど、思い出すことはできる。

          ニコニコ生放送で暫く放送をしていた。 何ができるわけでもない自分が放送をしよう、と思ったところが、今思うととても良いなと思う。 当時は、スカイプを使っていて、数人の固定のグループがあった。 会議通話を行いながら、オンラインゲームを渡り歩いていた。 新しいゲームがでるたびに、ベータテストに乗り込んでいって、またふわっと解散する流れだった。 そこで、しゃべりを褒められた。 某一級建築士のネタをとっさに返すことができたのだ。 僕はしゃべることができる、というかしゃべるのがうまいんだ

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        疲れたし、今日はnoteを書くのをやめようと思いつつ書いたnote。

          ツイッターやめました。

          厳密には、スマホに入っているツイッターのアイコンを削除した。 そこまでスマホを触っている時間があるわけではない。 そんなにのめりこんでいるつもりもない。でも、アプリの中で一番使っていたのが、Xだった。 スマホで何となく使っている時間がとても多いということが、ログからわかる。 ここまで入力していて、PCの挙動が遅くなっていた。 入力できないわけではなかったけれど、気持ちが悪かったので再起動した。それである程度許せるぐらいのスピードで変換してくれているのでこのまま書き続ける。 だ

          ツイッターやめました。

          人生はやめようとおもわないけれども。

          這いつくばって書いている。 昨日は久しぶりにハイボールを自分で作って飲んだ。二杯飲んだので眠くなって寝た。 いろんなやらないといけないことがあったけれど、そういうのはとりあえず無視して寝た。そのため、結構元気に一日を過ごすことができた。 急にやらないといけないことがふってくることは確かにあるけれど、後ろ倒しになっていることが多いので、ちょっとこのサイクルを見直していきたいな、と考えている。 タスクシュート的な考えを導入している。もちろんきちんとそれが行えているわけではない。し

          人生はやめようとおもわないけれども。

          自分探しは意味がないと大人は言うけれど、嫌な自分探しはみんな結構やってそうで。

          自分探しというと、ハチミツとクローバーの主人公が行ったように、青臭いものと相場が決まっている。 ただ、自分探しということを一度でも考えない人は、自分というものについてついぞ理解することはないだろう、ということは断言してもいい。 今朝久しぶりに機嫌が悪かった。 大人の称号を得るためには、自分の機嫌ぐらい自分でとらねばならない、と自分に言い聞かせながらそのままの気持ちで午前中を終えた。 もとから朝は強い方ではないが、それでもちょっとよろしくなかった。 少ししたら落ち着いてきたので

          自分探しは意味がないと大人は言うけれど、嫌な自分探しはみんな結構やってそうで。

          読む人のことを考えて書いてんの?

          読む人のことを考えながら文章を書くべきなのだろうな、とわかっていてもなかなかできないそんな境遇に甘えている。 わかりやすい文章、シンプルな表現、そういうものにあこがれを抱いているけれど、同時にそういうものではない何者かになりたいという願望を持ち合わせてしまっている。 単純に文章が上手になりたい、と願っているわけではなく、書きたいから書いているのさ、と開き直る。居直っている。そんなんじゃ、だめだなと思いつつ、だめでも書く方が幾ばくかましではないか、ともう一人ではなくさっきの自分

          読む人のことを考えて書いてんの?

          わからないことに囲まれてわからない人生を送っている。

          わからないことを書いていきたいなと思った。 日記を書く気にもあまりならない。 その日に考えたことなら書けそうだなと思う。何を考えたんだろうか、と考えてみる。 わからないことについて考えていた。 わからないことがあると、悔しいしわかりたいなと素朴に思う。 わからなくてもいいや、とできないところがある。 こだわりのような徹底されているものではない。 逆に僕はきちんとすることが、苦手というより、できない、といった方がいいかもしれない。 丁寧といってもいい。きちんと測って何かを行うと

          わからないことに囲まれてわからない人生を送っている。

          シンプルな考えを持っている人間はやがてシンプルな脳みそを持つことになってしまうだろうか。

          シンプルな文章を心がけていきたい。 この文章自体がシンプルではないと僕は思う。 僕は、文章を正確に書きたい。これも少し違う。 僕は、文章を読んでくれる人にとって読みやすいように書きたい。 もうなんだか袋小路な感じである。やればやるほど、僕が書いた文章が自分の言いたいことから遠ざかっている。 何も考えずに文字を打つということもいいのだけれど、読む人のことを考えてみると、文章の書き方というものがもう一段階ステップアップしていくんじゃないかと最近もくろんでいる。こういう長ったらしい

          シンプルな考えを持っている人間はやがてシンプルな脳みそを持つことになってしまうだろうか。

          僕は演技が下手だけれど。

          カラオケ行こ、を観た。ネットフリックスで。 主役の演技がとてもすばらしい。カラオケをちゃんとメインディッシュというか、そういうしかけにしているところもよかった。 思いっきり腹を抱えて爆笑するというよりは、ほんわりコメディという匙加減もよかった。 主人公の部活の後輩のポジションの男の子の演技がとてもよかった。キャラクターというか、没入感というか、そういうことを考える。 日常生活で僕たちは演技をしている。悪い意味とか、変な意味ではなくて、その与えられた場にふさわしい演技を、また

          僕は演技が下手だけれど。

          低空飛行でも飛んでいる。

          人に見られるために文章を書いているわけではないけれど、じゃあなぜこれを書いているのかと問われると、見られることを、読まれることを意識して文章を書きたいからだと言える。 今年は桜が遅く咲いたのか、長持ちしているのかわからないけれど、通勤の時に嫌でも目に入る。大きい桜の木がたくさん植わっていて、春という感じがするよりも、なんだか嫌だなと思う。桜が散ることが嫌ということではなく、桜が満開なのが嫌である。 花見に行ったし、桜が綺麗に咲いているな、と思った。 でもなぜか今年は桜が咲いて

          低空飛行でも飛んでいる。