自分探しは意味がないと大人は言うけれど、嫌な自分探しはみんな結構やってそうで。

自分探しというと、ハチミツとクローバーの主人公が行ったように、青臭いものと相場が決まっている。
ただ、自分探しということを一度でも考えない人は、自分というものについてついぞ理解することはないだろう、ということは断言してもいい。
今朝久しぶりに機嫌が悪かった。
大人の称号を得るためには、自分の機嫌ぐらい自分でとらねばならない、と自分に言い聞かせながらそのままの気持ちで午前中を終えた。
もとから朝は強い方ではないが、それでもちょっとよろしくなかった。
少ししたら落ち着いてきたので、特に何もせずにそのままの自分に戻った気がする。
ただ、自分を見つけるというより、嫌な自分というものを見つけたいなとお風呂の中で考えた。
みんなそれぞれネガティブな部分を持ち合わせていて、それが淀みであったり、うまみであったりにつながっていくのだろうけれど。
僕の場合は、めんどくさがりである。片付けをすることや、メモをとること、もうきちんとすること全般的に途中から嫌になってくる。最近ではゲームですらも、なんだかやらされているような気がしてくる。
もちろん僕もまだ人生的に若手の部類だと自負しているので、ゲームを楽しむことは可能である。ただ、楽しみ続ける能力に関しては少し陰りがあることを認めざるを得ない。

あるゲームをしばらくやっていると、夢中になってやるタイミングがいつのまにかさっと引いて行って、今僕が目の前で行っているゲームというのは、ある決まりを理解して、その決まり通りに決まった行動を決まったタイミングで行う営み、のように思えてくる。それは正しい意味でのゲーム理解なのだけれど、ゲームを楽しむためにはゲーム理解は必要ではないというパラドックスを見つけてしまった。

途中で嫌になるとき、何が嫌だったのか、どう思ったのか、どう感じたのかを言語化していこうと思う。
メモだってそうである。
決まりを守るということにとても抵抗があるわけではない。ただ、物の片づけだって、予定を立てることだって苦手の筆頭なのである。
自分を見つけるというポジティブな営みの中に、みたくもないような自分の一面が垣間見えてしまう、でもそれはそれで最近はいいかなと思っている。
この僕の無邪気さが裏自分探しとでもいえる営みにリンクすることを期待しつつ。

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