自分のことを見くびってしまうことほど面白くないことはない。

必要以上に人に気を使って生きていくということは、なんだか嫌だなと思う。
自分をそのままだす、という言葉もなんだか嫌だなと感じる。
じゃあどうするのか、というと、適当にふざける、ということである。
ふざける?と思うかもしれないが、なかなかふざけるのも大変なのである。
まず、ふざけるためには、その場の空気を理解しておかなければならない。下手をすると、なんだか自分を持っていて、人に流されないナイスガイと思われるか、マイペースな人間なのだな、という荒っぽいレッテルを貼られてしまって、ふざけるということが不可能になってしまう。
そうではなくて、ふざけるということは、場の空気を自分が理解しておきながら、周りからは当然のように当然のことを理解している、と思われていなければならない。それを裏切るからこいつふざけやがって、と怒られることが可能になる。
怒るということは、何か信用されているような土台があって、それをひっくり返してはじめて発生する感情だと思う。
それがない状態で、こっちが「ふざけて」みても、こいつは何もわかっていないだけだな、と見くびられる。ふざけるというのはそう考えてみると、ある程度の能力が必要なのだろう。
文脈を無視するのではなく、文脈を理解したうえである程度その文脈にのっとったうえで、さっそうと裏切るのである。ふざけたくなってきた。

こうみえて僕は結構ふざける側の人間である。
シリアスな雰囲気が嫌いだとかそういうことではなく、単純にその文脈に飽きてしまうということなのだろう。飽きるけれども、独自のコードのようなものを確立しているわけではないので、その飽きた対象の文脈を利用して遊ぼうとしてしまう。そうするとその文脈を大事にしている人たちから反感を買うことうけあい、ということであろう。

ただ勘違いしてほしくないのは、僕はその文脈へのかかわり方の一つを提示しているだけにすぎない。Aという答えが要請される場所で、可能な限り僕はBやCと言いたい。それが甲とか、乙とかではだめなのだ、ということがわかってきた。だから裏切ることが増えてきた。
当然のように当然のことを求められると、僕はそうしたくないので、裏切っていく。僕が毎日noteを書けるわけない、ということを今日も裏切っていく。

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