低空飛行でも飛んでいる。

人に見られるために文章を書いているわけではないけれど、じゃあなぜこれを書いているのかと問われると、見られることを、読まれることを意識して文章を書きたいからだと言える。
今年は桜が遅く咲いたのか、長持ちしているのかわからないけれど、通勤の時に嫌でも目に入る。大きい桜の木がたくさん植わっていて、春という感じがするよりも、なんだか嫌だなと思う。桜が散ることが嫌ということではなく、桜が満開なのが嫌である。
花見に行ったし、桜が綺麗に咲いているな、と思った。
でもなぜか今年は桜が咲いていて少し嫌だなと思う。

新しい生活にも少しずつ慣れてきている。
職場は変らないけれど、少し環境が変わった。ぶっちゃけ去年よりは少し楽になっている。仕事の内容に慣れてきたこともあるし、担当部分が少し変化して作業量としては減ってきている。
最近は納得する事について考えている。
何かを行う時に納得する必要がある。さらにその何かは小さい工程に分割されていく。プロセスでもいい。
そのプロセス一つ一つを納得してじゃんじゃか行っていく。そういうものだよね、と思う。

ただその両者の考え方の相性はあまりよくないとも思っている。
納得ベースの場合ある程度のシステムのようなものを作るエネルギーも大きいけれど、ぶち壊してしまうようなエネルギーも携えている。
何かはあるプロセスの塊だと捉える立場は、合理的というか、めかめかしい感じがする。無機質な感じ。僕じゃなくても大丈夫な感じがする。
行動を行うときはその方がやりやすい。私性を漂白するとでもいえばいいのだろうか。工場でベルトコンベアーな感じである。
納得というのは、どんなに合理的な説明を施されても、結局その人の基準でOKが出せなければ焼け石に水なのである。

ただその両者が交わる点も確かにある。納得を拡げることができるような部分がある。誰にでもわかりやすいような基準を設けたり、説得力のようなものを付与してみたりする。でもそういうのが一番嫌なんだよなぁというこの自分の天邪鬼というかもはや悪趣味みたいなものが自分の中にいる。
何も求めないような態度、ニヒリズムのような子供っぽいということでもない構え方。こういうのに蓋をするといいことがない。こいつとも仲良くやっていくしかない。そういう度量は一つ、ネガティブケイパビリティに求められそうだ。

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