やっぱり、告白されるより告白する方が振られるというリスクを抱えられる分生きているって感じがする。

もう一月も終わりそうなこのごろ。
最近自分の頭の中でぐるぐる回っているのが、訂正可能性の話である。
そのおかげで身体が楽だ。こうやって更新することも、さくさくできる。

東浩紀の訂正可能性の哲学を少し前に読んだ。
修正というと、修正液をかけて綺麗にしちゃう感じで、訂正というと二重線で訂正印をポン、と押すようなイメージかなと。
消しゴムで消すことに慣れきってしまって久しい状況だった、ということから、訂正印をぼんぼんおして、訂正だらけの自分自身を受け入れるということを考えている。
一見かっこわるい気がする。気がするけれど、そのかっこ悪さこそが、自分自身なのだな、と思う。
自分を白い液体でぺーっと塗りつくして安心して、人の白く無さを論うという人間にはなりたくないし多分なれない。
失敗なんていくらでもする、なんてことはいくらでもわかっていたけれど、どうにもなかなか失敗しないように生活していた。

失敗は成功の母である、という言葉は正しすぎると思う。強すぎる。
失敗したことをそのまま受け止める力が少なくとも僕にはそこまでない。
だからといって失敗をほっておけるほど豪胆でもない。だから訂正するのである。
すまんな、と認めるのである。
問題なのはそこで誰かに許容されるかどうかではなく、まず自分自身でその問題に気が付いていること、そしてそれに対してそこまで綺麗ではないにしても訂正しようと試みている、ということがわかることが大事なのである。
修正というのはその機微がない。どこまで削ってどこまで残してどうそれを忘れないでいるか。
修正は忘れてしまうことがメインになっている気がする。他の空白と同じように、なんでもないように。
訂正可能性について正直そこまで覚えていないけれど、足りないぐらい、という最近の僕の中の新しい概念にもつながってくるなと書きながら思っている。
訂正は多分足りることはない。どこか物足りない。もう少し消したい気がするし、どうどうと胸を張れることはない。いや、確かに自分のことなのだけれど、どこかよそよそしいというか。
そういうわだかまりが訂正にはある。悲喜こもごもというところである。
好むと好まざるとにかかわらず、完全な修正なんということは不可能なので、修正を目指す営みは破綻することが見えている。行動ができなくなってしまう。
息をしやすくするためにも、訂正していく。訂正すらも間違う可能性を孕みながら。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?