とりあえず、落ち着くために書いた。書けた。

人生に必要なことは、希望と訂正可能性なんだろうな、と思っている。
最近仕事でもプライベートでも、なかなかやらかしつつあるので、そんな自分を支えるためにも東浩紀の訂正可能性の哲学を再読せねばと思う。

だいたい本を一冊読んだとしても内容を全部覚えられるわけではない。そこに書かれてる内容と自分のそれまでの考え方が混然一体となって剽窃もかくや、といった感じになれば読書としては大したもんだといえるのではないだろうか。

どんな内容であれ励まされるようなものでなければ、つまり何かしらの行為を促進するような読書でなければ、読まない方がいいというほどでもある。
今はあまりやる気にならない。気合や根性や努力を忌み嫌う僕であるが、ひょっとしたらそういう概念を振り回した方がこの身体が動いてくれるならそうしたい、という気もする。

ただ実際に自分を動かすのはある希望に支えられた環境というかしくみである。このnoteもその一環である。
本を読む時間もあまりとれないこの頃。本当はゆっくり読んで書いて語り合うべきなのだろう。だけれど場も時間もない。
であれば作るのみといったところである。書きたくなったことを書くというよりは、特に書く事がなくてもひねり出してみる。

誰かに評価れるわけでもなく、ただ文章の形であればよいとしている。特にテーマも設定していない。小学校の時に作文を書かされる際に文字数を稼ぐテクニックを駆使していたが、今やっていることとあまり変わらない。変わるとしたらその書く事の周期が毎日訪れるということである。

訂正可能性を支えることはなんだろうか。訂正可能性に開かれていることを信じることだろうか。本気を出したらうまくいくとかそういう話でもないし、うまくいかないときは仕方ない、けれど自分ができる範囲ではある程度柔軟に対応していって、その時をひっそりまったりまたなかったり、という感じなのだろうか。
ネガティブケイパビリティもそうである。
どうも最近は、結論が出なさそうな問について耐えるというよりは、結論をださない工夫の口実に使っている気がする。ちょっと邪道かもしれない。
ただ、安易な結論に流されないということは、同じ発想だと思うし、それに恩恵を多く受けている。

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