わからないことに囲まれてわからない人生を送っている。

わからないことを書いていきたいなと思った。
日記を書く気にもあまりならない。
その日に考えたことなら書けそうだなと思う。何を考えたんだろうか、と考えてみる。
わからないことについて考えていた。
わからないことがあると、悔しいしわかりたいなと素朴に思う。
わからなくてもいいや、とできないところがある。
こだわりのような徹底されているものではない。
逆に僕はきちんとすることが、苦手というより、できない、といった方がいいかもしれない。
丁寧といってもいい。きちんと測って何かを行うとか、段取りを組むとかそういうことができない。

でも一体なぜできないのだろうか。
今考えていることは、そもそもきちんと丁寧に行うという概念がないからではないか、と思う。
きちんと、というと語弊があるかもしれないが、曲がりなりにもこうして毎日noteをきちんと更新している。もちろん日によっては1文だけ更新してどや顔をしているだけの日もある。ただ、それも更新していることに他ならない。
自分はおそらく、概念として納得できたこと、肯定できたことに関しては抵抗感なく行うことができるのだろう。

では自分が抵抗感を持っていることとはなんだろうか。
実はというと変かもしれない。でも僕は下ネタが苦手というか嫌いである。
大学の時は、そうやって下ネタで安易に笑いを取るスタイルごと嫌っていたけれど、今は単純に下ネタというものにかかわりたくないと思う。
潔癖というわけではないけれども、なんだか嫌だなと感じる。
中学生男子のように話ができないというのは僕の年齢的な意味では必然なのだけれど、飲みの席などでははるか昔に中学生を卒業した人々がその時の情熱のまま下ネタを話している。ただそういう話に加わりたくないし、話したくもない、と思う。

そういう欲望がまったくないとかでもない。ただ、なんだか嫌なのである。
この理由はないけれどなんとなく嫌、ということは概念化しずらい。
嫌いな食べ物も、理由があるというよりはなんとなく、な感じである。肌に合わないということだろうか。

その意味ではやはり、わからないことをわかりきるということは不可能な相談なのだ。そう考えると安心する。
わからないままでもいいし、わかってみるとなんだそんなことか、と思えたりする。
ただわからないままでいい、ということが問うことから自分を遠ざけてしまうようなそんな気がしている。

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