雑多であることを恐れないで。

ワンピースは今ジャンププラスで無料で読めるらしい。
サンジが仲間になる海上レストランのところまでざっくり読みました。

通園バスで園児が亡くなった件。報道がひっきりなしにされている。
そのたびに悲しい気持ちになる。カラマーゾフの兄弟を思い出す。
神様がいるならなぜ虐待で死ぬ子供がいるのだろうか、という一節。
罪がないのに、という話なのだろうけれど、罪があっても死ぬことはないんじゃないかと思う。
でも事故で死んでしまう。偶然に。

マニュアルを組めば死亡は防げたかもしれないし、クラクションの鳴らし方を教えていれば助かったかもしれない。
けれど、と思う。今もどこかで偶然に死んでしまう人がいるのだろう。
僕もいつか死ぬ。
なにかドラマティックに死ぬというよりは、なんだかんだひっそりと死ぬのかもしれない。

母方の祖父が認知症気味である。
母方の祖母は耳がとても遠くなってしまって、もともとの心配性から認知症の祖父の行動にやきもきしているそうである。
老いていくのは当然であって、できないことが増えていく。
偶然死ぬわけではなくて、寿命で亡くなるのであればいいのか?と思う。
まだ死ぬことについて整理できていない。
それは、孔子がいうように、生きているということをよくわかっていないのに、死ぬことがどうしてわかるのだろうか、というレトリカルなことではなく、実際に個人としての自分は亡くなってしまうことが確定していて、そのあとに残される世界というものも、おそらく存在するということが確定している、ということをどう解釈するのか、という話なんだろう。

そういうことを考えるタイミングが人は訪れる。
中学生の時に、実はすべて先に決まっていて、こういう風に思うことも先に決まっている、ということを思うことも先に決まっている、と思うことも…というループした思考をしながら部活の坂道ダッシュをしていた。
なんとなく部活をしていたなぁと今よく思う。
なんとなく塾に通わせてもらっていた。
高校受験は受験制度がなんか簡単なやつだったので、そこそこのところに通えていた。といっても、今考えるとそこそこのところであり、当時はその受験制度のせいでレベルが落ちていたのだろうけれど。
高校の時のことは昨日のことのように思い出せる…か?コロナはなかったし、中学から付き合っていた彼女はいたし、ラグビー部に入っていた。今と何もかも違う。地続きな感じがするか?もちろん顔形はそのままなんだろうけれど。

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