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【短編小説】変革

 毎週欠かさずに聴いている深夜のラジオ番組が終わり、僕はラジオの電源を切ると、蛍光灯の消えた暗い部屋の中で一人、何故に自分は二十四年間もの間童貞であるのかと、改めて考えてしまうのだった。
 容姿に関しては、決して悪いほうではないとの自負があった。良くもないが悪くもない、客観的視点に立ち点数を付けるのなら、凡そ六十点といったところであろう。しかし、容姿というものは彼女を作り自らの童貞を捨てるという目標を達するまでの要因としては、それを満たしていないであろうと思う。それは、街中を不細工な男が綺麗な女を連れて歩いているという事実を幾度となくこの目で見ていることからも明らかである。ともなればやはり内面、自身の人格の性質によるものが極めて大きいのだとの結論に至らざるを得ないのだ。
 つい先週まで勤めていた中華料理店のアルバイト先でこんなことがあった。そのアルバイト先に僕と同時期に入った同世代の男(Aと呼ぶ)は人当たりが良く、いつでも不必要なほどに溌剌と喋る男で、僕がまともに話をしたこともないバイト仲間達と瞬く間に打ち解け(バイトが始まってから二週間ほどが経った頃、作業が遅い、と社員に一人こっぴどく叱責されている僕の背後で、彼がバイト仲間からカラオケに誘われているのを聞いたこともある)、ついには僕が好意を持っていた、同じくバイトの女がそんなAに好意を抱いてしまったのである。なぜその事実を僕が知り得たのかというと、Aとは帰り道が同じであった僕に、帰りのその道中で自身の連絡先が書かれた紙をAに渡して欲しい、と頼まれたからという、なんとも情けない事情からであった。そしてついにはAとその女は付き合うことになってしまったのである。彼女のほうはなかなに愛嬌があって可愛いものだったが、そのAというのは贔屓目に見たとしてもとても容姿が良いとは言えず、むしろ僕のほうがいくらか二枚目なほどであった。そしてそのときもやはり僕は、自身の人格の性質を恨んだものである。仕事の手順を要領よく覚えていくAの脇目で、社員やら年下のバイトやらに、覚えが悪い、と叱責される自身の様は、どれだけ贔屓目に見てもとても格好良いと言えるような代物ではなかった。そんな僕の姿を、きっと彼女は気にも留めていなかったであろう。むしろ、要領の悪い格好の悪い男とでも思われていたことだろう。ついに嫌気が差した僕は、休憩時間中にそのままバックレてしまうという愚行に走ってしまう始末であった。
 そもそも高校を卒業して以来ずっとニートであった僕が、何故に二十三にして初めてアルバイトを始めようと思い立ったのか、理由は単純明快であった。ただひたすらに、彼女が欲しかったのである。それだけである。その本質を言えば、女とセックスをしたかったのである。僕には友人と呼べる者がただ一人いるが、彼は僕と同じく高卒のニートで、半年前までは童貞であったのだが、一年ほど前からケーキ屋でのアルバイトを始め、そこで初めての彼女と、ついに貞操を捨てたのであった。残される形となった僕は、これはいよいよ不味いと思い、四ヶ月前に中華料理屋でアルバイトを始める運びとなったわけである。しかし先ほど述べたように、そのアルバイト先でちんともかんともいかなかった僕は、ついに童貞を捨てるどころか、女とまともに話をすることもなかったのであった。こうなると僕はとうとう追い込まれる形となった。アルバイトを始める他に、童貞を捨てるその手段というものがまるで思い付かなかったのである。風俗に行けばよい、という者もいるのであろうが、昔から妙にプライドだけは高い節がある僕は、素人童貞などという浅ましい人種にはどうしてもなりたくなかった。自らの人生史に、そのような事実が刻まれることを想像しただけでも悪寒が走る。そんなことを沸々と考えながら、生活の昼夜逆転がさらに半分ほど過回転していた僕は、先ほどまで酒を呷っていたこともあって、まどろみ、意識は部屋の闇に徐々に溶けていくのであった。

「終わってみれば、なんだこんなもんかって感じでさ」
 山口は灰皿で煙草を揉み消しながら、嬉々と言う。
「でもあれだな、クンニだけは駄目だ。ありゃあ無理。臭くてしょうがねえよ。ゲロ吐きそうになったし、マジで」
「へえ、俺はしてみたいんだけどな、クンニ」
「いやあ、あれはやめておけ、舐めるよりも舐めてもらったほうがずっといいぜ。昨日も舐めてもらって、そのまま顔にぶっかけちゃった」
 山口は煙草の火を揉み消すと、本棚から僕が一昨日に買ったばかりの漫画本を抜き取ると、読み始める。
「お前もとっとと捨てちゃえよ、童貞なんか」
「そりゃあ、捨てられるものなら今すぐにでも捨てたいけど」
「バイトはなんで辞めちゃったんだ? 可愛い子が居るって、始めた頃に言ってたじゃないか」
「まあ、色々とあって」
 ふうん、山口はそう息を漏らすと、漫画の世界に没入し始める。なあ、僕は言う。
「どうしたら良いと思う」
「何が」
「彼女だよ。どうしたら出来ると思う」
「そりゃお前、バイトしかねえだろうなあ」
 山口は意識の半分を漫画の世界に、もう半分をこちらの世界に向けて続ける。
「だってよ、俺らみたいなフリーターが女の子と出会う方法なんてそれぐらいしかないだろうよ。そりゃナンパが出来るような度量があるってんなら別だけど」
 ナンパをするという考えは以前から僕にもあった。しかし、バイト先の女とすら緊張してしまってまともに話すことも出来ないような僕が、そんな芸当をやってのけることが出来るはずもなく、もはや選択肢にも上がらない。
「じゃあよ、バイト先でどうにもならなかった俺はこのまま童貞ってことかよ」
「まあ、そうなるわな」
 さも無関心そうに山口は言う。
 山口だってつい半年前までは僕と同じ童貞であって、共に呑みに出掛けては、彼女が出来たらこんな変態的なプレイをしてみたい、などと、毎晩のように語り合っていたものだった。そのくせに、一人先に事を済ました途端にこのような態度をとる始末である。しかし僕は、山口のこのような態度に憧れを感じてもいた。以前の山口には決して無かった、男の余裕というものを感じさせたからである。更にもこの男は、その普段の細かな行動の節々にすら、その非童貞の独特たる雰囲気を覗かせるようになったのだった。その、未だ僕の持ち合わせない特有の雰囲気というものは、今の僕にはひどく魅力的に思えてしまうのだった。そんな山口を見ていると、益々に僕の童貞喪失への意欲というものは高まる一方であり、どうしようもない程の焦燥感をも抱くようになっていくのは、当然の運びというものだった。いよいよ僕は、一つの、過去に消沈したはずの選択肢を再びその水面へと浮き上らせると、決断した。
「……してみるわ、ナンパ」
 山口は特に気に留める様子も無く、漫画のページを開きながら、マジで、と訊く。
「ああ、ここまで来たら、もうそれしかない」
 自分に言い聞かせるように僕はそう呟く。しかし、いざその行為を実行すると決めた途端に、布団に胡坐をかいた足の力が一気に抜け落ちていくほどの恐怖感と不安感が、ひたすらに僕を煽ってくるのであった。

 結論から言えば、僕はナンパをしなかった。というより、やはり出来なかったのである。一度は駅前までは行って、僕なんかでもなんとかなりそうな、地味目の、いかにも処女臭い女に声を掛けようと試みたものの、その女に近づくまでは良かったのだが、やはりどうしても声を掛けるという芸当は僕には出来ないことだった。これでいよいよ僕は、どうしようもならない羽目に陥ったのだ。

 山口へのナンパ実行宣言から一ヶ月ほどが経ち、僕は幾度と無く、何か良い考えは無いものかと思慮したものの、やはりそのような考えは浮かばずに、僕はただ自堕落に毎日を過ごしていた。
 しかし、そんなある日の朝であった。何気なく点けていたテレビから流れる、情報番組の特集コーナーに、僕の目は釘付けとなった。最近では、インターネット上のサービス、SNSを通じて出会い、交際にまで発展する若者が急増しているという類のものだった。僕は思わず、これだ、と呟く。この番組を観る前から、ネット上で男女が知り合い、交際をするなどという事は知っていた僕が、何故今まで気が付かなかったのか。僕はそんな自分を自嘲しつつ、しかし、新たなその可能性に胸を高鳴らせながら、早速テーブルの上のノートパソコンを開いた。僕はまずツイッターにアクセスし、アカウントを作成すると、アイコンに顔写真が載っていて、顔面偏差値五十以上の女達に、もし良ければお会いしませんか、といったようなリプライを送りに送った。二十人ほどには送ったであろうというところで、僕は返信をひたすらに待った。
 丁度夕飯時であることに気付いた僕は、一階の台所へと降りて行く。テーブルの上に今日のおかずである肉野菜炒めが、それぞれの皿へと盛り付けられていた。
「丁度今出来たところよ。冷めないうちに食べちゃいなさい」
 母は僕にそう促すと、茶碗にご飯を盛り付け始める。この夕飯を食べ終える頃にはきっと、女達からの返信が数件は来ているはずだ。僕はあえてスローペースで自らの皿に盛られたその全てを食べつくし、特に観たくもないテレビ番組を一時間ほど眺めると、部屋へ戻った。
 高揚した僕の気持ちとは裏腹に、返信は一件も来ていなかった。しかし、よくよく考えてみれば、まだリプライを送ってから二時間程しか経っていない訳で、ツイッターの初心者である僕には、ツイートを送信してからどれほどで返信が返ってくるものなのか、その間隔も掴めていないのであるし、きっと早とちりのし過ぎだろうと省みる。すると先程たらふく飯を食べたことで眠気が僕を誘う形となり、僕はパソコンを閉じると、部屋の電気を消しベッドへと倒れ込む。翌日の朝が待ち遠しかった。

 ついに一週間ほどが経っても、返信は一件も来なかった。自身のアイコンは出来るだけ良く写るように工夫したつもりであったし(実際、中々に良く撮れていたと思っている。)、リプライの文面も、出来るだけ丁寧に書いて送ったはずである。
 残った見解といえば、女側の方がおかしい、という結論であった。少なくとも平均点は上回っているだろう容姿を持つ男から、あのような丁寧極まりない文章を送ってもらったというのに、何の音沙汰も寄こさないというのは、美的センスが欠如しているか、人格的に何処か欠陥があるとしか思えなかった。これでは誠意を持ってツイートを送った僕に対して失礼というものではないか。
 僕はもっとまともな女を探そうと、今まではアイコンの画像のみを見て送っていたのだが、プロフィール欄にまで目を通し、ある程度聡明そうな女に対して、凡そ十人ほどにリプライを送った。しかしついに、それから二週間ほどが経っても、ただの一件も返信が返って来ることはなかった。
 ツイッターの一件で、SNSというものを完全に見限った僕は、本当はフェイスブックという物にも手を出してみる予定だったのだけれど、そのページを開くまでも無く、ついに僕のインターネットを介して出会いを求めるという手段は、完全に、その手中から離れる形となった。
 するといよいよ、今までの僕を突き動かしてきた、その源にあった考えが揺らぎ始める。素人童貞となっても構わないのではないか、という自身への提案が、沸々と沸きあがってきたのだ。自身のプライドを大いに傷つける事になるのは確実ではあるが、そのようなプライドにいつまでも拘っていては、このまま無駄に齢を重ねていく一方であり、三十歳童貞、などという、素人童貞と同様、むしろそれ以上に自尊心を傷つける結果に繋がるというものではないだろうか。そう考えながら僕は、今までの自身の価値観というものについて改めて考え始める。そもそも僕は何故、そこまでに素人童貞という人種を、自身がそのような人種になる事を嫌うのか。
 それは自身のプライドの高さもさることながら、やはり、僕の心が僅かに持つ、純真な部分のそれに尽きた。どうしても、初めてのキスや性行為というものは、好きになった女と行いたいという考えが、十代の頃から、揺るがぬ価値観として僕に根付いていたのだ。しかしこのまま一生童貞であるということもまた、やはりその価値観が許さない。最早、どちらに転んでも同じことなのだ。それならば、これから一生懸命に彼女作りに奔走するなどという面倒なことは辞め、このままだらだらと、童貞のまま生きていくほうが楽なのかもしれない。
 しかし僕にはどうしてもそれが出来なかった。生まれもった男の本能が、それを許さなかった。僕は、草食系男子などという、男ならずな人種とは違うのだ。しかしそうは言いつつも、実際に女と会うとまともに話すことすら出来ない。むしろ男としても人間としても欠陥があるのは、僕のほうなのかもしれなかった。何かの偶然で出会った好みの容姿の女が勝手に僕に好意を抱き、告白をされ、付き合い、性行為に至る、そんなことを毎晩のように夢想したところで、それは到底有り得ない話であった。しかしそう思う一方、もしかしたらそんなこともあるのかもしれない、と考えてしまう自分も居るのだ。何故なら、実際にそのような経験をした男は、数は少なくとも必ず世の中に存在するはずなのだ。僕にはもはや、その可能性に賭けるしかないのではないだろうか。
 しかし、結局家に閉じこもりっぱなしであった僕にそのような事が起きるはずも無く、無駄に時間だけは過ぎ、そのまま一年もの歳月が流れることとなった。 

 山口は彼女との交際を続けていた。野外プレイだとかカーセックスだとか、やってみたかったプレイは一通り済んだとのことだった。今日もまた彼女の家に遊びに行く(というよりセックスをしに行くのだろうが。)とかで、僕の部屋での二人だけの飲み会を抜けていった。一人残される形となった僕は、山口の置いていった缶ビール二本を立て続けに飲み干し、知らぬ間に眠った。

 昼過ぎに目の覚めた僕は、いつものように母が作っておいてくれているであろう昼飯を食べようと、一階のキッチンへと降りる。しかし、なにやら聞き慣れぬ声が扉の向こう側から聞こえてくる事を察知した僕は、気付かれぬよう、そっと聞き耳を立てる。するとどうやら姉が友人を招いているらしかった。僕は空腹をその場は我慢し、溜まりに溜まった小便だけをトイレで放つと、自室へと戻った。
 それにしても、その姉の友人らしき女は一向に帰る気配が無かった。もう既に僕が起きてから二時間は経とうとしていた。空腹に耐え切れなくなった僕は、億劫ではあったものの、再びキッチンへと向かう。
 キッチンへ続くリビングの扉を開けると、姉とその友人が、ソファに座り談笑をしていた。僕は、こんにちは、と少し俯きながら挨拶をする。そのまま足早に向こうのキッチンへ行こうとしたのだけれど、思いの他、姉の友人が話し掛けてくる。
「弟君も、ちょっとこっちに来て一緒に話そうよ」
 僕は、しくじった、と思った。こんな展開になるのであれば、もう少し空腹を我慢すればよかった。その姉の友人の意見に、姉も、そうだよ、こっち来な、などと言って同調する。
「いや、でもお腹が空いちゃって」
「ああ、今日はお母さん、お昼ごはん用意してないよ」
「え、どうして」
「朝から木ノ下さんと出掛けてるもの。聞いてない?」
 そういえば昨日の晩にそんな事を言っていた、と思い出す。木ノ下さんというのは母の友人である。
「クッキーあるから、これでも食べなよ」
 僕は仕方なしにソファの空いた右端に座り、テーブルに置かれたクッキーを摘んだ。
「写真では見たことあったけど、やっぱり似てるねえ、由香と」
 ここで僕は初めて、この姉の友人の顔をまともに見る。甘めに付けても、偏差値四十、といったところであった。つまり、ブスであった。
「……よく言われます」
「目元なんて、そのまんまじゃん」
 僕は早くクッキーで空腹を満たし、この場から去りたい一心だった。姉とその友人(会話の流れから名は奈央子だと知る。)は、僕ら姉弟の似ている、似てないといった話でやたらと盛り上がっている。カーテンから漏れる初夏の日差しは、丁度僕の座るところへ差し込む形になっていて、その眩しさに目を細める。カーテンを閉めようと思ったものの、どうせこのクッキーを食べ終えればこの場を去るわけであるし、そのままにしておく。
「壮太郎君、あんまり家族に迷惑を掛けちゃ駄目だよ。今仕事、何もしてないんでしょう」
 他人のお前にとやかく言われる筋合いは無い。と言ってやりたいところだったが、僕はにやにやと情けなく笑って誤魔化す。
「うちの親も甘いんだよね。追い出しちゃえばいいって私はずっと言ってるのに。前にバイトを始めたときは褒めてあげようと思ってたのに、すぐに辞めちゃうし」
「へえ、何のバイト?」
 中華料理屋です、僕は答える。
「どうして辞めちゃったの」
「なんというか、他の人たちと馴染めなくて」
「馴染めなかったって、例えば?」
 この女、こうもずけずけと他人の領域に入り込んで来るところをみると、きっと僕が最も嫌っている、ガサツで図太い神経の持ち主なのであろう。僕は仕方なく答える。
「バイトの人達とも仲良く出来なかったし、社員とも上手くいかなかったというか」
「ふうん、なるほどね」
「社交性ないもんね、あんた」
「うるさいな」
 皿のクッキーのそのほとんどを食べ終え、ようやく部屋に戻れる、とソファから立ち上がろうと思った時、奈央子さん(敬称を付けることに抵抗を感じる。)が言う。
「よかったら、うちの店で働く? 居酒屋なんだけど」
 今の自分の、引きこもりっぱなしの現状に当然満足などしていなかったし、かといってまた自分から行動を起こす気力もなかったので、その提案を受け入れようとも思ったが、居酒屋などという体育会系の人間の巣窟で働くことなど到底無理である、と僕は瞬時に結論を下す。
「いえ、大丈夫です。では、ゆっくりしていって下さい」
 そう言い残すと、僕は部屋へと戻った。 

 夜の空気は、少しの暖かさを含んだ風を僕の顔へと優しく吹きつかせる。僕は毎日の日課としている深夜の散歩へと、今日もまた一人出掛けていた。
 街の皆が寝静まるこの時間帯に歩くのが僕は好きだった。まるでこの街が丸ごと自分のものになったかのような、実際に経験したことのある者にしかわからないであろうこの感覚。何の変哲も無い日本建築の家や、何やらカラフルで幾何学的な形をした個性的な家。日本建築の家主のほうが実は個性的な人物で、幾何学的の家主のほうが実は、何の変哲も無いサラリーマンが住んでいたりするのかもしれない。そしてそのどちらの人物も、もし仮に何かのきっかけで僕と関係することがあったならば、どちらかは僕に優しく接してくれ、またどちらかは当たりを強く僕に接してくるのかもしれない。しかしそのどちらとも、今は眠ってしまっている。でも僕は起きていて、こうして散歩なんかをしている。そんなことを考えることのできるこの時間が、僕は好きだった。
 結局母が帰ってきたのは夜の十時頃で、僕は近くのコンビニで弁当を買って食べた。しかしその量にあまり満足出来ていなかった事もあって、今になって小腹が空いてくる。いつもの散歩より少し遠出にはなるものの、僕は駅前にある牛丼屋へと向かうことを決めると、踵を返した。
 店内には従業員が一人きりだった。僕は食券を買うと、テーブルの上に置く。すると従業員は厨房のテーブル清掃をしていたその手を止め、僕の食券を取りに来る。注文の品を確認すると、また厨房へと戻って行って調理を始めた。深夜のアルバイトならば一人で気楽に働くことが出来るのかもしれない。月に一度もらえる祖母からの小遣いに、少しの物足りなさを感じていた僕は、働く気などはないものの、少し、こんなようなアルバイトをするのもいいかもしれない、と思ったりした。そこで僕は姉の友人の、あの女の提案を思い返す。改めて考えてみると、僕がリビングから去る際に微かに聞こえてきた会話から、彼女は店長であるようだったし、例え多少のミスや僕の生まれ持った天性の要領の悪さがあったとしても、友人の弟という建前上、強く当たったりすることは出来ないのではないだろうか。寧ろ他の従業員より優遇される可能性だってあり得る。中華料理屋での立場とは、丸きりに違う環境で働くことが出来るのだということに僕は気付く。更にもしかすれば、彼女に女だって紹介してもらえるかもわからない。前回のように怒られることもなく、彼女を作ることも出来、金まで貰えるとなれば、一石二鳥というものではないだろうか。僕はあの時、瞬時に断りを入れてしまったことを悔恨する。頼んだ牛丼が運ばれて来るとそれを頬張りながら、明日の朝、姉に頼んで奈央子さんにこの意思を伝えて貰おうと決めたのだった。 

 朝、夜通し起きていた僕は、姉が起きたところを見計らって、奈央子さんに自身の意思を伝えてもらいたいと頼む。忙しなく朝食を取りながら姉は快諾すると、間も無く一目散に家を飛び出して行った。
「由香となんの話をしてたの」
 朝食を片付けながら母が聞く。
「姉ちゃんの友達がアルバイトを紹介してくれるっていうから、お願いしようかと思って」
 そう答えると母は、あらそう、と微笑み、頑張りなさいよ、と呟くとシンクの蛇口を捻り皿を洗い始めた。
 全開のカーテンからは快晴の青空が見えた。久しぶりに朝空を見た、と僕は思った。しかしとうに眠気が訪れていた僕は、年中カーテンの閉めっぱなしである部屋へと戻ると、電気を消し、そのまま眠りについた。
 夕方に目覚め、やがて姉が帰って来ると、一週間後にはシフトに入って欲しいという旨を伝えられた。
 やはりいざアルバイトを始めるとなると、なんとも憂鬱な気持ちになった。しかしやはり、あの時とは状況が違うのだから、そこまで気負う必要も無いはずだった。僕は自身にそう言い聞かせながら、しかし心に多少の不安を残しつつ、ついにその日を迎えるのだった。 

 二つ先の駅に着けば、五分ほど歩いたところにその店はあった。既に数名の客が入っているのが窓の外からわかる。二人組の若いサラリーマンは、ビールを片手になにやら笑い合っている。上司の愚痴でも垂れながら盛り上がっている塩梅だろうか。その向こうでは、女の三人組が真面目な様子で話し合っている。その内の二人の顔が望めたが、容姿は整っておらず、僕は気にも留めない。自動ドアを抜けて店内へ入ると、早速見知った顔があった。
「時間通り来たね。じゅあこっち、来てくれる?」
 僕は促されるままにキッチン裏のスタッフルームへと通される。ロッカーと着替え用の仕切りのカーテン、ビールケースに置かれた灰皿、そして事務処理用であろうパソコンが置かれたその部屋には、煙草の匂いが染み付いていた。丁度仕切りのカーテンが開くと、二メートルはあるだろう背の高い男が、お疲れっす、と低い声で呟き、僕と奈央子さんの間を抜けて部屋を出て行く。奈央子さんは僕に合ったサイズの制服を選ぶと渡し、カーテンの中で着替えるように僕に促す。
 着替えを終えると早速厨房へと連れ出され、作業中の皆に挨拶をするように言われた。その場に居た三人と挨拶を交わし、次にホール担当のスタッフである二人とも挨拶を終えると、今日はひとまず皿洗いをしてもらいたい、と奈央子さんは言う。簡単な作業の流れを教わると、僕は次から次へと運び込まれてくる皿やコップをスポンジで軽く洗い流し、業務用の食洗機にそれを放り込むという作業を三時間ほど続けたのだった。その頃の僕には既に、辞めたい、との思いが心の奥から浮き上がってくるのを感じていた。こんな作業をあと四時間も続けなければならないのかと考えただけで、このまま黙って帰ってしまいたい衝動に駆られた。更に先程挨拶を交わした二人の女のなかには、顔面偏差値五十以上の女はいなかった。僕のやる気を著しく低下させた要因は、それが最も大きかった。これでは僕がここでのアルバイトに期待していたものは、きっと得られないのだろう。所詮僕の人生なんていうものはこんなものなのだろうと思った。思えばいつだってそうだった。今まで生きてきて、人生が好転したと思えたことなんて、僕には思い付かない。客観的視点に立つ何者かが、それは違うと異を唱えるかもわからないが、少なくとも僕自身は、心底そう思っている。またこれで僕は今まで通り、人生になにも良いことなど起きることもなく、家にひきこもり続けて生きていくのだろう。僕は洗っていた皿を思い切り地面に叩き付けてやりたかった。そんな僕にまた、客が食い残した餃子の盛られた皿が運ばれてくる。その刹那、僕は虚無、無心になると、工業用作業アームの如く、ひたすらに皿洗いを続けるのだった。
 上がりの時間が近づいて来ると、奈央子さんが僕の元へと寄って来ては、自分も上がる時間だから、他の皆に挨拶をしたら駅まで一緒に帰ろう、と僕を誘う。僕は言われた通りに挨拶を交わし、スタッフルームへと向かった。奈央子さんが先に機械でタイムカードに打刻をすると、続けて僕も打刻する。先に着替えてよいということだったので、僕は制服を脱ぐと、私服に着替え直す。カーテンを開けると、奈央子さんは隅に置かれたパソコンでなにやら作業をしていた。
「なかなかキツかったでしょ、皿洗い」
 作業を続けながら、僕に訊いた。
「はい。僕、しばらくはこのまま皿洗いなんですか」
「そうだねえ、最初は皆皿洗いから始まるんだよ。でも一ヶ月もすれば調理もしてもらうから安心して。皿洗いよりはずっと楽だから」
 最大の目的であった彼女作りに暗雲が立ち込めていた僕に、一ヶ月も皿洗いを続けるなんて不可能だろうと思った。どうしてこうも女運がないのだろう。それなりの容姿の女など、街を歩けばいくらでもいるというのに。居酒屋で働く女といえば、確率論的に並以上の容姿の女が働いているであろう、という僕の既成概念は、跡形もなく吹き飛んでしまっていた。
 どうやら奈央子さんは作業を終えたらしく、パソコンの電源を落とすと着替えを始める。着替えが終えると、僕たちは共に店を出たのだった。
 駅までの繁華街には、やたらとカップルが多いように思えた。しかしもしかしたら、僕が意識してしまっているせいで、僕の目にだけやたらと多く映ってしまっているだけなのかもしれない。僕は外でカップルを見かける度に、彼等の元へ車でも突っ込み、二人共々死にはしないものかと毎度のように考える。ふと、今自分が女と二人で歩いているのだということに気付く。傍からみれば、僕たちはカップルに見えているのかもしれない。思えば、母と姉以外の女と二人で歩くなんて、生まれて初めてのことだった。
「明日もちゃんと来なよ」
 奈央子さんがスマートフォンを弄りながら、僕に言う。
 僕は頷きながら、その確信を持てずにいた。明日の僕の行動は、明日の僕のみぞ知るのだ。 君がさ、と奈央子さんが続ける。
「うちでバイトをしたいと思った一番の理由ってなに? お金? それとも女の子との出会い、とか?」
 一番は言わずもがな女との出会いだ。お金も当然欲しいけれど、もし彼女さえ出来るなら、そんなものは一銭もいらないとさえ今の僕には思える。理想を言えば、金銭的に余裕のある、年下好きの美人キャリアウーマンのヒモにでもなれるのであればそれが一番なのだけど、そんな女達と僕とでは、まるで住む世界が違うというのはわかっている。奈央子さんに出会いを求めてる、などと言ったところで、紹介されるのはきっと顔面偏差値五十もいかないようなアルバイト先の女達なのだろう。言うだけ無駄というものである。僕は、やっぱりお金ですかね、と答える。
「そうだよね。今は欲しいものとかが出来たときにはどうしてるの?」
 両親から小遣いをもらっています、と、自分でも何故そう言ったのかわからないが、些細な嘘をついた。どうやら祖母から小遣いをもらっているという事実は、僕の価値観では親からもらうということよりも恥ずかしいことなのだという思いがあるらしい。
 いくらくらい? 奈央子さんが訊く。月に一万円程であると僕は伝える。
「それじゃあ、欲しいものとかあんまり買えないでしょ」
 確かにそれはその通りなのだが、欲しいものを買うために働くくらいなら、それを我慢して働かずに済むほうを取ってしまうのだ。しかし所詮、その程度の物欲しさであっただけなのかもしれない。
 物欲の旺盛な人間が、僕には羨ましく思える。たとえば山口なんかは、釣りやギターが趣味であり、会うと毎度のように、あの釣具が欲しいだとか、何色のギターが欲しいだとかを言っていた。何かに熱中できるそのことが羨ましく思えるのだ。僕には熱中できるような、その何かがまるでないのだ。だから彼のように、どうしても欲しいものというものが思い当たらないのである。人生の充実度というものは、そのような趣味があるのかどうかでも、いくらか変わってくるものであろうと思う。そう考えると、自分の人生のその密度の低さというものに、甚だ嫌気が差してくる。
「あまり欲しいものとかないので」
「そっか、あんまり物欲が無いんだ。羨ましいなあ。わたしなんて、欲しいものがありすぎて、お金がいくらあっても足りないくらいなのに」
 でもさ、と彼女が続ける。
「物欲はなくても、彼女は欲しいでしょ?」
 それは当然である。そもそも僕がアルバイトを始めようと決めた第一の理由がそれなのだから。しかし、それももう期待は出来ないことではあるが。
 僕は肯定して頷く。
「そりゃそうだよね。もう何年くらいいないの、彼女」
 この女の、他人の個人的な領域に踏み込むようなところは、やはり嫌いだと思った。僕は本当ならば、今の年齢と同じ年を答えなければいけないところを、やはりプライドだけは人一倍に高い節がある僕は、五年ほどですかね、などと答える。へえ、どうして別れちゃったの。彼女は訊く。女と交際などした試しのない僕は、男と女の別れの理由など到底思いつかず、しどろもどろに、なんとなくですかね、などと答えてしまう。すると彼女は、ふうん、そっか、などと、特に興味もなさそうに答えた。
 駅の改札口へと着くと、僕たちはそれぞれのホームへと向かうため、そこで別れた。

 夕食を食べ終え、両親が晩酌のために買い置きしている缶ビールをこっそりニ本ほど拝借して部屋へ戻ると、一本目を一気に飲み下す。両親の前で酒を飲むことに気が引けてしまう僕は、本当は夕飯にありつきながら酒を飲みたいところなのだけど、毎度自室で、一人隠れるようにして飲むのだった。二本目の缶ビールのプルタブを引くと、僕は明日のアルバイトについて考える。まず、僕の交際する異性になり得る女というものが、今のところ一人も見当たらないことに、僕は辟易としていた。あの店といったら、まるで深夜のコンビニ店員のように醜い女達しか居ないのだ。しかしまだ一日しか働いていないのであるし、まだ出会っていない、あの日のシフトには入っていなかった女に期待をするというのも有りなのかもしれない、と僕は考える。すると次には、皿洗いという苦痛以外の何者でもない仕事内容に対する不満が湧き上がってくる。しかしそれも、もしも僕の交際する女性にふさわしい女がこれから現れるのであれば、きっと我慢ができるはずだろうと思った。僕はひたすらにそのような女が現れることを願いながら、二本目のビールを飲み干したのだった。

 結論から言えば、顔面偏差値五十以上の、僕が交際する女になり得る女は、働いていた。ただ、本当にラインぎりぎりの、五十ちょうどといったところではあったが、今の僕には十分であった。僕は今日、店に入った直後にホールで客からの注文を取るその女を見つけると、その後の皿洗い中ずっと、どうして彼女と仲良くなることが出来るものかと、考えを巡らせていた。やはりまずは何気の無い会話から始まり、徐々に仲を深めていくというのが最も安定した策であるとの結論に至る。僕は、隙あらば彼女に話しかけてみようと、皿を洗いながら、意識は完全にホールで注文を取って回る彼女へと向かっていた。
 僕が皿を洗い始めてから一時間ほどが経つと、彼女はホールの店員たちへ挨拶を始める。どうやらそろそろアルバイトを上がる塩梅であろう。ホールのスタッフ皆への挨拶を済ますと、キッチンへと向かって来る。彼女はまず厨房に、大きな作業音が響く中でも聞こえるよう、腹に力の入った声で挨拶をすると、それとは逆方向の、一人黙々と皿洗いをこなしていた僕にも挨拶をしに来る。そこで妙な焦りを感じた僕は、今こそが、彼女となにか会話をするチャンスなのではないかと思ったが、こちらはまだ仕事中であるし、それには無理を感じ、ただ挨拶だけを返す。すると彼女は、足取り軽くスタッフルームへと向かって行った。
 それにしても、どうやら僕とはシフトの時間がずれているらしかった。これでは彼女との仲を深めるどころか、話し掛けることすらも難しいかもしれない。どうしたものかと、一人皿を洗いながら考えてはみたものの、良い考えなど一切浮かぶことはなく、アルバイトを上がる時間を迎えるのだった。

 アルバイトを始めてから一週間ほどが経とうとしていた。相変わらずに僕は皿を一人ひたすらに洗っていて、洗い始めてから一時間ほどが経つ頃に彼女はアルバイトを上がって行く、という繰り返しが続いていた。
 ある日のことである。いつものように奈央子さんと二人、駅までの帰路に着いていると、ふと彼女が言った。
「来週の飲み会、壮太郎君も来るでしょ」
「飲み会ですか?」
「あれ、言ってなかったっけ。うちの店、二ヶ月に一度、バイトと社員で飲み会を開いてるの」
 僕は、ついにこの時が来たと思った。ここまで一週間もの間、あの糞つまらない、疲れだけが溜まっていくだけの皿洗いなどをしてきた甲斐があったというものだ。
「それって、全員が参加するんですか」
「もちろん、当日にシフトが入ってる人は来れないけど、そうじゃない人は、皆来ると思うよ」
「来週の、いつですか」
「えっとね、水曜日」
 来週の水曜日となると、僕も彼女もシフトには入っていない。来週分まで自分と彼女のシフトをチェックしていた僕は、ついに彼女と話すチャンスが来たのだと、心のなかで舞い上がる。
「参加させて頂きます」
「オッケー。十八時半に駅前集合だから、遅れないようにね」
 駅で奈央子さんと別れると、明日のバイトにより憂鬱であった心も、いくらか楽になったような気がした。ついに、僕の童貞喪失へと端緒が掴めたかもしれないのだ。心踊らずには居られない。僕は顔をにやつかせながら、ホームで最寄り駅行きの電車を待った。  

 比較的多く同じ時間帯のシフトに入っている、いかにも気の弱そうな三ツ谷というこの男は、僕より一月ほど前に入ったばかりの大学生で、皿洗いの期間を終え、最近ようやく調理の担当に回されたようであった。毎度のように社員の男に怒られ、休憩時間が同じになったときにはよく僕に愚痴を垂れる。それは今日もまた同じであった。
「一気に色々教えられたって、覚えられるわけがないですよ」
 三ツ谷は煙草の煙をくゆらせながら言う。僕も口から煙を吐くと、適当に頷く。
「だいたい教え方が下手なんですよ。あれをこうしてああしろとか。もっと具体的に言ってもらわないと」
 僕が一言も発しなくても、彼は壊れたCDプレーヤーのようにひたすらに愚痴を溢し続けた。体育会系の人間特有の、良く言えば裏表のないさっぱりとした、悪く言えば頭の悪そうな暑苦しい男達の多いこの職場では(僕は主に後者の印象を持つ。)、三ツ谷のような、気弱で陰湿そうな男のほうがむしろ、僕は親近感を覚えてしまうものだった。事実、彼とシフトが被る日は、いくらか気が楽な自分がいた。彼はその後もねちねちと愚痴を垂れ続けると、先に休憩を上がって行った。

 しっかりと顔を洗い、目やにが付いていないかとか、鼻毛は飛び出ていないか、などを神経症者ほどに何度も確認して、僕はついに家を出た。ようやく、僕の人生に変化を起こせるかもしれないいうことが、僕はとにかく嬉しかった。今まで決して回る事のなかった童貞喪失への歯車が、ようやく回り始めるのだ。これを喜ばずにはいられない。
 案の定、彼女は出席していた。十人ほどが集まった居酒屋の一室では、皆それぞれ仲の良い者同士で集まっては雑談をしている。僕はというと、隅の席で三ツ谷と二人、アダルトゲームの話で少しの盛り上がりをみせていた。おすすめの原画家は誰か、とか、好きなシナリオライターはいるか、とかそんな話だ。
 彼女はというと、ちょうど対角線上の席で、奈央子さんと、もう一人、恐らくアルバイトであろう女と三人で楽しそうに笑い合っている。僕は彼女に話し掛けるタイミングが掴めずにいた。掴めていたのなら、今こうして三ツ谷と二人、アダルトゲームの話で盛り上がってなどいないだろう。そんな僕たちの様子に気付いた奈央子さんが僕たちのほうまで近寄ってくると、話し掛けて来る。
「なに話してるの」
 僕たちが、いや、べつに、などと返すと、あっちで皆と話そうよ、と僕たちに促す。三ツ矢はあまり乗り気ではなかったようだったが、相反して当然乗り気であった僕は、ひょいひょいと彼女についていく。すると三ツ谷も仕方なしといった様子で後に続く。奈央子さんの横に空いていた席に僕と三ツ谷とで座ると、僕の隣に彼女が座る形となった。
「聡美ちゃんとはシフトの時間が違うから、話すのは初めてなんじゃない?」
 奈央子さんがいきなりにして、僕に良いアシストを入れてくる。僕は、待ってました、と言わんばかりに彼女に話し掛ける。酒が回っていたこともあり、幾らかスムーズに話すことが出来た。
「ここでのバイト、長いんですか」
 彼女は答える。
「そうですね、大体一年前くらいからです」
「学生さんですか」
「はい、専門学校に通ってます」
「専門学校。なんのです」
 僕は矢継ぎ早に訊く。
「デザイン系です」
「デザインってなんのですか、服とかですか」
「いえ、グラフィックデザインです。広告とかのデザインについて勉強してます」
「へえ、広告」
 僕はなんとかこの話題を盛り上げようと必死だった。なにせこの会話の盛り上がりこそが、今後の童貞喪失に大いに影響してくるのかもしれないのだ。緊張を感じながらも、次々に言葉を突いて出す。三ツ谷は奈央子さんとなにやら話しているようだし、僕はここぞとばかりに捲くし立てる。
「なら将来は、有名な企業のチラシとかポスターなんかを作ったりするんでしょうね」
「有名な企業かはわからないですけど、仕事内容はそんな感じだと思います」
「すごいですね、なんだか僕には手の届かない世界って感じ」
 その言葉に、彼女は機嫌を良くした様子。しめた、と思った僕は畳み掛ける。
「僕なんか高卒だし、そんな世界、入りたくても入れないですよ。やっぱりそういう業界って、さぞ華やかな世界なんでしょうね」
 彼女はさらに機嫌を良くした様子で、デザインに興味があるんですか、などと訊いてくる。
「はい、あります。なんだかカッコいいじゃないですか。デザイナーとかって」
 これが決め手となったらしく、彼女はデザインとは何かだとか、デザインの素晴らしさなどといった、全くどうでもいいようなことを嬉々と話し出す。僕は一滴の興味もないそれらの話を、いかにも興味津々と言った様子で聞いた。しかし、その話に対する僕のあまりの関心の無さとつまらなさに、そろそろいい加減にしろよ、と思ったところで、ようやく彼女は満足したらしく、自らのデザイン論を語るのを終え、すっかり上機嫌な様子。そこで僕は、ここぞとばかりに酒を勧める。彼女はどうやら酒に弱いということであったが、僕は自分の分の酒を頼むのと同時に、彼女の分の酒も半ば強引に注文する。きっと周りの者達はそんな僕の様子を見て、なにやら女に対して必死な奴、などと心の中で嘲笑しているのであろうが、僕にはそんなことはどうでもよかった。もし彼女と関係すら持てたのなら、こんなアルバイト、すぐにでも辞めてやるのだ。
 二人分の酒が運ばれてくると、僕は彼女と乾杯する。勢いをつけるためにも、僕は注文した中ジョッキビールを、一気に飲み干す。
「お酒、強いんですね」
「はい」
「うらやましいです。私なんて、缶ビール一本飲んだだけでもへろへろに酔っ払っちゃうんです」
 それならば、彼女の頼んだカシスオレンジさえ一杯でも飲ませてしまえれば、今夜中にでもどうこうできる可能性が上がるいうことだ。僕は俄然にテンションが上がり、散々彼女に酒を勧め、強引に次の酒を注文する。少し嫌そうな顔を時折見せはするものの、酔わせてさえしまえばこっちのものなのだ。
 その後も僕は、趣味はあるかだとか、アルバイトと学校以外の時間はなにをして過ごしているのかだとかを聞いて、話を繋ぐ。話を途切れさせてしまったら、僕にはもう彼女をどうにかするチャンスは永久に無くなってしまうような気がしたのだ。

 どれほど喋り続けたであろうか。気付くと僕は自室のベッドの上だった。スマートフォンで時計を確認すると、画面のデジタル時計は朝の九時を示していた。僕は朦朧とする意識のなかで、あれからのことを思い出そうとする。しかしまだ眠気と気怠さも強く、思い出せたような思い出せないような、確実に思い出せたような気もするし、思い出せたと思っていることは実は夢なのかもしれない、などとぼんやり考えていると、徐々に意識ははっきりとしてきて、僕はようやく昨日のことを、確信を持てるほどに思い出した。
 あれから彼女を酔わせることよりも自分に勢いをつけるほうに重きを置いてしまった僕は、彼女はまだ二杯目に数回口を付けたほどだと言うのに、自らは次々と酒を呷っていくと、とうとう気分が悪くなり、一人トイレで吐き、会場へ戻るとそのまま眠ってしまったのだ。曖昧ではあるが、奈央子さんがよろめく僕を支えてタクシーまで乗せてくれたようなことも思い出した。僕は酷い自己嫌悪に襲われ、そのまま布団のなかで、何をするわけでも何を考えるわけでもなく、膝を抱えてただ踞るのであった。
 気付くと時計は昼の十一時を示していて、腹も減ってきた僕はようやく布団から抜け出ると、空腹を満たすためにキッチンへと降りて行く。どうやら母親は出掛けている様子で、僕はテーブルに置かれたチャーハンに掛けられたラップを剥がすと食べた。赤ウインナーの入った、子供が好みそうなその味が僕は好きだった。それを食べ終えると、僕はリビングのソファへと倒れ込む。点けたテレビのワイドショーでは、アイドルとお笑い芸人の熱愛が発覚、などというニュースに対し、コメンテーターと呼ばれる人種の奴らが盛り上がりを見せていた。僕は画面は点けたまま音だけを消すと、仰向けになって一人考えるのだった。しみじみと一人、自己嫌悪に陥った。あのようなチャンスを逃してしまったのだ。それも、自らの失態によって。これを落ち込まずにはいられない。次にあのようなチャンスが来るのは、また二ヵ月後ということになるのだ。それまであのアルバイトを続けるモチベーションを保つことが出来るであろうか、僕にはわからなかった。ただ落ち込んだ気持ちのまま、音の消えたドラマの再放送を眺めていると、そろそろアルバイトの時間であることに気付く。僕はしばし迷ったものの、僕の思考とは別の、僕にもわからない、どこか脳味噌とは別の部分で出した結論が僕の体を動かすと、一人また最寄り駅へと向かって行くのだった。

 どうやらこの日、彼女はシフトに入っていないらしく、その姿は見えなかった。
 周りの者の視線が冷ややかに感じられる。その理由は明らかであった。どうにかして女とヤリたい、という男の本能をあざあざと皆に見せつけ、かと思えば、一人酔い潰れてしまったその一部始終を彼らは見ていたのだ。このような目で見られても致し方ない。僕は足早に事務所へと入ると、着替えを済ませるのだった。
「昨日はほんと、大変だったよ」
 シフトインまでまだ時間があったので事務所内で煙草をふかしていると、奈央子さんがパソコンで作業をしながら言う。
「すみません」
「大学生じゃないんだから、お酒の飲み方くらい覚えないとね」
 僕ははにかむと、煙草を一口吸う。それにしてもさ、と彼女が続ける。
「壮太郎くん、聡美ちゃんがタイプなの」
 タイプというわけではないが、童貞を捧げるには最低限のレベルなんです、などと本心を語る訳にもいかない。
「まあ、そんなところです」
 彼女はふうん、と息を漏らすと、キーボードを打ちながら続けた。
「でもさあ、昨日はちょっとあからさま過ぎたんじゃない? 壮太郎くんが寝ちゃってから、皆笑ってたよ、必死すぎるだろって。聡美ちゃんもあまりいい気はしてなかったみたいだし」  
 その言葉に僕は、昨日の自分を省みてまたも激しく悔恨する。当然のことだ。飲めない酒を強引に勧め、かと思えば一人先に酔い潰れて寝てしまったのだ。そんな男に好感など持つはずもなかった。
 それにしても、である。このような状況を作り出してしまった以上、もはや彼女と僕の関係が好転する可能性は、極めて低くなってしまったのではないだろうか。他の従業員からも、女を求めることに必死なイタい奴、とでも思われてしまったのだろうし、あのような醜態を晒してしまったのでは、彼女から好感を持ってもらうのはかなり難易度の高いものになってしまったと思う。もはやこの場所で働き続ける意味はないのではないだろうか。しかしここでまた辞めてしまっては前回の僕と同じである。それに、バイト先の店長が姉の友人であるというこの状況は、この先もうあることではない。やはり童貞を捨てたいのであれば、この場でどうにかするしかないのだ。ここで何も起こせなければ、僕はきっとこの先もずっと変わることは出来ないだろう。
「今日もまた主に皿洗いをしてもらうと思うけど、そろそろ調理済みの料理の盛り付けとかも覚えてもらう事になるから、初日に渡したマニュアルを読んで来週くらいまでには覚えておいてね」
 そう言い残すと、奈央子さんは事務所を出てホールの仕事へと戻っていく。僕も煙草を吸い終えると、続くのだった。

「昨日の飲み会、凄かったですね」
 休憩時間、共に煙草をふかしていた三ツ谷は言う。
「猛烈アタックし始めたと思ったら、一人で酔い潰れちゃったじゃないですか」
 三ツ谷は少し馬鹿にしたような口ぶりで、にやつきながら言った。
「あの子に惚れてるんですか」
「まあ、そんなところです」
「そんなに可愛いですかね、あの子。なんだか地味じゃないですか」
「でも、ここで働く女のなかでは、一番マシじゃないですか」
 三ツ谷は、まあ、それは確かに、と頷く。
「どれくらい居ないんですか、彼女」
 ここでも僕はやはり、本当のことは言えなかった。
「まあ、五年くらいですかね」
「へえ、けっこう長いんですね」
「三ツ谷さんは彼女、居るんですか」
「居ますよ。大学に入学してすぐに知り合って、もう一年になりますかね」
 この言葉に、僕は心の奥で小さく落ち込む。どうしてこうも周りの男は非童貞であるのか。そしてまた、何故僕が未だに童貞でいなくてはならないのか、と僕は自らの人生を呪った。そしてこの男に対して芽生えていた親近感というものも、薄れる形となる。
「でも、彼女ならいけるんじゃないですか。そんなにモテそうなタイプでもないですし。倍率は低そうですね」
「そうですよね。がんばってみます」
 その後僕と三ツ谷は残りの休憩時間、またもアダルトゲームの話で多少に盛り上がりを見せ、共に休憩を上がるのだった。

 洗い終えた食器類を所定の場所へ片付けていると、泉が低く小さな声で、ぶっきら棒に僕に指摘する。
「その皿はそこじゃねえよ」
 どうやらもう長いことここでアルバイトを続けているらしいこの男は、バイトの初日、その背丈の高さに驚いたことが強く印象に残っていた人物だった。
 すみません、と小さく謝り、何処へ置くべきなのかを訊ねると、彼はなにも答えず、僕の手から皿を掴み取ると、シンク下の戸棚を開け、同じ皿が積まれたその上へと重ねた。すると彼はそのまま何も言わずにまた調理作業を始める。その男の態度に、僕は苛立ちを感じながらも、次々に運ばれてくる皿を、ひたすらに洗い続けるのだった。
 この男は先日の飲み会にも来ていなかったし、僕と奈央子さんが知り合いであることを知らないのであろう。僕が彼女に少し告げ口をすれば、きっと僕にそんな態度は取れなくなるというのに。そんなことを考え僕は鼻を鳴らし一人笑った。そう考えるとやはり、奈央子さんという存在は実に頼もしいと思えた。前回のアルバイトであれば、そうはいかない。どんなに嫌な奴がいたとしても、泣き寝入りするしかなかったのだから。そこで僕は一つ閃く。わざわざ次の飲み会まで待ち、聡美さんとの関係を深めようとしなくとも、奈央子さんに、僕が好意を持っているということを直接伝えてもらえば良いのではないだろうか。頼みさえすれば、二人で会う約束も取り持ってくれるかもしれない。僕は先ほどまで苛立ちを覚えていた泉に対して、この閃きを与えてくれたことに対して感謝した。早速今日の帰りの道中にでも、奈央子さんに頼んでみよう。僕は気持ちの高揚を感じながら、濯いだ皿を食洗機へと放り入れた。

「いいよ、全然。協力してあげる」
 僕の提案に奈央子さんは、予想以上の反応を示してくれた。
「やっぱり五年間も彼女がいないってのはキツいもんねえ。なにより、由香の弟の頼みだし、壮太郎君と聡美ちゃんがくっ付けるように、出来るだけのことはしてあげる」
 僕はなんだか、もう彼女と付き合えることが確実になったかのような心持ち。
 でも、と彼女が続ける。
「前回のミスはちょっと大きかったかなあ。今の聡美ちゃんは、壮太郎君に良い印象は持っていないだろうし。あんな強引な手段に出る前に、わたしに相談してくれれば良かったのに」
 それは僕もそう思うが、やってしまったことはもう仕方がない。
「それならさ、まず壮太郎君が聡美ちゃんに好意を持ってるってことを私が伝えて、でもまあ、言わなくてももう彼女もわかってるとは思うけど。それで、前回強引なことをしちゃったことを謝りたいらしいから、一緒にお茶でもしてあげてくれないかな、って頼んでみるっていうのはどう?」
 中々に良い提案であると思った。僕は、是非、とその提案を快諾すると、よし、となにやら気合を入れた様子の彼女。
「そうと決まれば、その後は壮太郎君次第だからね。頑張って」

 その日、僕はいつもよりも早く家を出た。ついに、彼女との約束の日を迎えたのだ。奈央子さんはあの日の翌日、早速彼女にその旨を伝えてくれたらしく、それからさらに三日後の今日、僕と彼女のシフトの被る日に(というより、奈央子さんが今日に限りシフトを合わせてくれた。)、お茶をする約束を漕ぎ着けてくれたのだ。バイトまでの時間であるから、話せる時間は三十分程であるものの、十分だと思った。
 僕は十分ほど早く、約束の店である小洒落たチェーンのカフェへと着くと、店前で彼女を待った。僕の前を幾らかのカップルが通り過ぎていく。僕もきっと奴らと同じ立場に立ってみせると強く思った。
 こんにちは、と後ろから見知った声がする。
「お店、入りましょうか」
 僕は、はい、と頷き、二人して店内へと入った。
 それにしても、さっきはしくじったと思った。このような洒落たカフェになど生まれてこの方縁の無かった僕は、どうやらこの店ではMサイズのことをトールサイズと呼ぶらしく、Mサイズでお願いします、と頼んだ僕の注文は、トールサイズでよろしかったでしょうか、などと訂正をされてしまったのだった。挙動不審に了承する僕の姿は、きっと彼女の目には無様に見えていたことであろう。しかし、既にそのような愚かな姿は見せてしまっているのだと僕は思い直した。今の僕は、とにかく『必死』なのである。
「この間はすみませんでした、無理に酒を勧めるようなことをしてしまって」
「いえ、別に大丈夫ですよ」
 やはり『必死』である僕は、自らの心のなかに湧いて出る緊張を差し置いて、言葉を喉の奥から押し出す。
「許してもらえますか」
「はい、全然気にしてないので」  
 少しの沈黙。
 それでなんですけど、と僕は切り出す。
「奈央子さんから何か聞いてますか」
 彼女は、聞いてます、というような顔をした後、なにをですか、などと聞き返す。
「僕が、その、あなたのことを気になってるっていうことです」  
 自分でもよくもこんなにはっきりと言えたものだと感心した。それほど今の僕は追い詰められているということであろう。彼女は俯き少し黙ると、はい、と頷く。
「よかったら、付き合ってくれませんか」
 こんな言葉がなぜか突いて出た。好意を知ってもらった後、徐々に仲を深めていくというのが僕の戦略ではなかったのか、と僕は自身に問い詰める。彼女の顔をちらりと見ると、驚いた顔で僕の目を見つめていた。そしてその目を逸らすと、それは、ごめんなさい、との返答。それは、当然こうなる。
「そうですよね、でも、よかったらこれからも仲良くして欲しいです」
 僕は先ほどの自身の告白をさほど後悔していなかった。自身に好意を持っているとの事実を他者から伝えられた状態より、本人から直接気持ちを伝えられたほうが、今後彼女の僕に対する気持ちの持ちようも変わってくるであろうと思ったからである。きっと彼女は異性からの告白など、さほど、下手をすれば一度もされたことはないのであろうし、であるならば、その数少ない相手である僕に、きっと他の異性とは違う感情を抱いてしまうのは、至極当然というものであろう。
「はい、是非」  
 彼女は微笑む。その後僕たちは、アルバイトの仕事内容についてだとか、どうでもいいようなことを少し話し、店を出た。

 共にアルバイト先の店へ入ると、他の従業員共が、何故この二人が共に、などといった目で僕たちを見る。そんななか、すれ違った奈央子さんは少しの笑みを浮かべ僕たちを見やり、お疲れ、などとなにやら意味ありげに僕に対して呟く。事務所内へ入ると、彼女はカーテン内で、僕はパソコンの置かれたテーブルの前でそれぞれ着替えを済ませ、共にタイムカードに打刻をした。

「で、どうだったの、彼女とは」
 いつものように駅までの道中を奈央子さんと歩いていると、早速といった様子で訊いてくる。
「振られました」
「え、振られたって、もしかしてもう告白したの?」
 僕は頷く。
「……壮太郎君さ、この前もそうだけど、ちょっと焦り過ぎなんじゃない」  
 焦りたくなくても焦ってしまうのだから仕方がない。僕だって、告白するつもりでした訳ではないのだ。
「でも、僕の気持ちは伝わったことですし、これからの僕次第だと思います」
「まあ、それは確かにそうだけど。それにしても、意外と肉食系なんだね、壮太郎君って。五年も彼女がいないのが不思議なくらい」
 寧ろ、生まれてこのかた彼女がいないからこその今の自分なのだ、と僕は思った。
「これからの行く末、見届けさせてもらうよ」 
 彼女は弄っていたスマートフォンをバッグへとしまうと、言った。彼女に無様な負け犬姿を見せぬためにも、やるしかない。このとき僕は、過ぎ行く一組のカップルを横目に、そう強く思った。

「一気に何種類も覚えられないだろうから、今日はまず炒飯でも作ってみようか」
 いつものように皿洗いをしていると、奈央子さんに声を掛けられ、言われるがままに奥の調理スペースへと入った。
「泉君、きっちり教えてあげてね」
 彼は、うっす、と気怠そうに低く呟く。奈央子さんは事務所でやることがあるらしく、彼に僕を託すと、去って行く。
「よろしくお願いします」  
 僕のその言葉がまるで聞こえていないかのように、泉は壁のフックに掛けられたフライパンを乱雑な素振りで掴み取ると、そこへ油を注ぎ、白飯をまたも乱雑にフライパンへと投げ入れる。その後、何種類かの調味料と卵をフライパンへと落とし入れると、皿へと盛り付けた。
「はい、やってみて」
 泉はぶっきら棒に言った。
 僕は、え、と返す。
「え、じゃねえよ。今やったようにやってみろって」
 僕は言われるままに、先ほどの過程を見よう見真似でやってみる。まず、フライパンに油を引き、白飯をフライパンへと落とし入れた。そして、一つの調味料を手に取ったところで、泉が言う。
「それじゃねえだろ、まずはこっちを入れるんだよ」  
 泉は五本程が置かれた調味料の一つを掴み取ると、掲げた。
「……すみません」
 その言葉に、泉が舌打ちする。言われるまま、僕は泉の掲げたその一本の調味料を振り入れる。次にどの調味料を入れるのか、僕には見当もつかない。迷った挙句、一つを選び、掴み取ると、
「お前、さっき俺が作ってたところちゃんと見てたか? それは最後に入れるやつだろう」
 お前、そう呼ばれたその時、沸々と湧き上がっていた僕の怒りはついに頂点へと達する。しかし、言い返して面倒なことになりたくなかった僕は、今日の帰りにでも奈央子さんにこの男の態度の悪さを伝えてやろうと決めた。僕は心のなかで、馬鹿な奴め、と彼を嘲笑する。僕が店長である奈央子さんと繋がりのあることも知らずに、こうも僕に強く当たるとは、実に間抜けなものである。そう思うと、この男に対する僕の態度というものもいくらか余裕が出てくるというものであった。
「すんません」
 僕はあえて間延びした声で返す。この僕の態度が、どうやら奴の気に障った様子。その後も泉は、さらに強い態度で僕に接した。炒飯の調理手順を覚えた頃には、傍から見ても険悪だとわかる雰囲気が僕たちを包んでいた。

「あの人、マジでウザいっすよね」
 休憩中、三ツ谷は言う。
「新人に当たりが強いんですよね。あの人のせいで辞めていったバイト、もう何人も見てますし」
 僕も奈央子さんという存在がいなかったら、そいつらと同じく、すぐに辞めていったのであろう、と思った。しかしそう考えると、僕のように繋がりを持たないにも係わらず、未だ辞めずに続けている三ツ谷というのは、なかなに根性のある奴なのかもしれないと思った。
「でも、仕事さえ覚えればあっちも何も言って来ないと思うんで、早く覚えちゃうことですね。と言っても、僕もまだ怒られっぱなしなんですけど、特にあの人には」
「あんなのが居るのによく続けられますね、このバイト」
「僕は今までいろんなバイトをしてきて、怒られることには慣れてるんで」
 多少の親近感を覚えていたこの男に、僕は自らの思い違いを気付かされた。僕と三ツ谷とでは根本が丸きりに違う。少し怒られたり嫌なことがあっただけで、逃げるようにアルバイトを辞めてしまうような僕と彼とでは。

「言っても無駄だと思うなあ」
 奈央子さんは言う。
「彼、ああいう性格だから、新人のバイトがすぐに辞めちゃうし、今まで私からも何度か注意したこともあるんだけど、全然変わらないんだよね。私も困ってるんだ。でも、普段はいい人なんだよ。ただ、仕事に対して真面目っていうか、スイッチが切り替わっちゃうって言うか。……でも、一応は言っておくよ。ただ、あまり期待はしないでね」
 これは少し不味いことになった、と僕は思った。奈央子さんに伝えることで彼の態度が改善されるものだと踏んでいた僕は、今日の泉に対する自身の振る舞いを後悔する。プライドだけは無駄に高いこともあって、人前で叱責されることが人一倍嫌いである僕は、これから先、きっと人一倍に泉からの叱責を受けるのであろう。童貞を捨てるためとはいえ、それに耐えることが出来るのか、その自信が僕にはなかった。
 話は変わるけどさ、奈央子さんが言う。
「聡美ちゃんとは今、どんな感じなの」
 どんな感じも何も、進展などある訳がない。前回カフェへ行ったとき、連絡先の交換こそしたものの、積極的に電話やメールなどをしたところで、引かれてしまうだけだろうと思った。前回の失敗を経て、時間を掛けてゆっくりと彼女との仲を深めていくしかないと決め込んでいたのだ。それにしても、この調子では一体どれほどの時間が掛かるものか、僕には見当もつかない。そもそも、彼女と付き合うことなど出来るのであろうか。どれほど頑張ったところで、彼女が僕に振り向くことなどありえないということだって、十分にある。しかし、僕には最早選択肢などなかった。この環境でどうにかすることが出来ないのであれば、一生童貞のまま生きていく。それほどの覚悟を持って臨んでいく他ないのだ。

 案の定、僕は毎日のように泉に叱責され続けた。やめておけばよいものを、僕も奴に対してふてくされた態度をとってしまうのだから、まるで悪循環であった。この四週間ほどの間で、何度辞めようと思ったことかわからない。しかし、日が経てば経つほど、辞める訳にはいかなくなる。ここで辞めてしまっては、なんのために今まで耐えてきたのかわからなくなってしまう。童貞さえ捨てることが出来たなら、きっと全てが報われるのだろう。
 料理のほうも八割ほどは覚えた。あともう少しの辛抱で、泉の叱責ともおさらばというわけである。

 バイト二連休の初日、僕は久々に山口と共に近所の居酒屋へ飲みに出掛けていた。
「でもすげえじゃん、そんな奴がいるバイトを一ヶ月も続けられてるってのは。前のバイトなんて、あっという間に辞めちゃったもんな、お前」
 山口は焼き鳥を頬張りながら言う。
「彼女とどうにかなったならすぐにでも辞めてやるけどな。それまでは辞められない」
「壮太郎史上、最大の決戦ってわけだな」
「まあ、そんなところ」
「ほんと、女って良いもんだぞ。おっぱいを揉んでるときなんか、こう、なんて言えばいいかわかんないけど、生きててよかった、みたいに本気で思えるんだよな」
 その言葉に僕たちは二人して笑う。でも僕は、本当にその通りなのだろうな、と思った。きっとそれが男という生き物の真理なのだろう。

 次の飲み会までようやくあと三日、というある日のことであった。覚えた料理のなかで最も調理法が複雑である八宝菜をなんとか作り終え、ホールスタッフの元まで運ぼうとした時である。
「おい、それ、水菜が入ってねえだろ」  
 仕上げに入れるはずの水菜を入れ忘れてしまっていることを泉が指摘する。
「すみません、直します」
「こんなミス、普通しねえぞ」
 その言葉のあと、泉がぼそりと呟いた言葉を僕は聞き逃さなかった。
「ほんと馬鹿だなあ」
 僕はそれを聞いた瞬間、堪えようのない怒りが全身を支配していくのを感じた。今まではなんとか収めてきたものの、その人間を単純かつ最も侮蔑する言葉には、気の立ちやすい僕の性格もあいまって、最早制御不能な感情へとそれが変容すると、休憩時間まではあと数分残っていたのだけれど、そのまま事務所へと向かい、着替え、店を出た。僕の思考は、泉への怒りがその全てを支配し、ただひたすらに僕の足は駅へと向かった。

 気付いた時、僕は最寄り駅の改札口を抜け、人も疎らな駅前の商店街を、自宅に向けて歩いていた。あのような男と共に働くなど、僕には到底出来ない。あのような侮辱的な言葉を発する男などとは、同じ空気すら吸いたくない。これでもう奴とも会わずに済むと思うと清々する心持ちであった。
 しかしであった。ある程度の心の落ち着きを取り戻した僕は、自らの行動を顧みた。これでは、前回のアルバイトの時と何も変わっていないのではないか。もしこのまま辞めてしまったとして、一体僕に何が残るのであろうか。また以前の、何も変わらない、変わりようのない生活が待っているだけではないだろうか。僕には最早、あの場所しか残されていないのだ。もしかしたら、また違うアルバイト先では、今よりも優遇された、泉などという人種も居ない、聡美さんよりも顔の良い女が働く職場もあるのかもしれない。しかしそんなことを言っているようではきっとまた、少し気に入らないことがあると辞め、少し嫌なことがあると辞め、の繰り返しになるのではないだろうか。僕はあの場所でのアルバイトに全てを懸けると、そう誓ったはずなのだ。
 スマートフォンで時計を確認すると、休憩時間が終わるまで残り三分であった。今から向かったところで到底間に合わない。皆から叱責されることは目に見えているし、特に泉には何と言われるかわからない。しかし僕は、自宅へと向かっていた足のその踵を返すと、駅へ向かって歩き出すのだった。心臓は大きく脈打ち、足の力は今にも抜けてしまいそうだった。それでも僕は、あの場所に戻るしかないのだと思った。自分自身の為、それだけの為に僕は上手く力の入らぬ足を動かした。

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