待ち遠しい明日のために

「明日」が待ち遠しかったのは、いつの頃までだっただろう?

子供の頃、「明日」は待ち遠しかったものだった。今日できなかったこと、叶わなかったことが、「明日」にはできるかもしれない、きっとできそうな気がする、そんな気分で一日を終え、「明日」を待ち遠しく思ったのは、いつの頃の事だっただろう?

では、「明日が待ち遠しいものでなくなった」のは、いつの頃だっただろう?

今日と同じ明日が続く、と思い始めたのはいつのことだろう? 明日が待ち遠しくなくなったのは、明日が「今日と違う、新しい何かが起こる日だと思えなくなった」頃なのだろうか、違う頃なのだろうか。

「明日を待ち遠しく思う」ことと、自分の希望の在り処を探すことと、その間にはどれくらいの違いがあるのだろう?

もしかしたら、僕たちは「待ち遠しい明日」を見失ってしまっているのではないのだろうか。だとしたら、「待ち遠しい明日」をどうやって、どんな場所で、どんな時に見つけられるのだろうか。

今日できなかったこと、叶わなかったこと、失敗したこと、後悔したこと、そんなあれこれを心の隅っこに貯えながら、「でも、明日には」と顔を持ち上げて夜空を見上げること。

今日はできなかったけど、明日にはできそうなことを数えながら、眠りの時間を迎えることが、もしかしたら「待ち遠しい明日」を手に入れる、ひとつの方策なのかもしれないし、違うかもしれない。

 でも、できれば、できることなら、明日は「待ち遠しい」ものであって欲しいものだな、と思ってみたりしている。

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