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怒りについて。

先日こちらの記事を読んで精読してからああだこうだ考えていた。

怒りをどう表現するか?——怒りの「モード」について|うみちる @chiruuuu___|note(ノート)https://note.mu/chiruuuu___/n/n5e80b371dbe3

ガッツリ議論とかそんなのやってもいいんだがそれよりもとても印象深い自分の友人の話をするといいだろうかと思った。

昨年9月、友人がガンで逝去した。
最初にSNSでした会話が「明日から入院なんです」という話だった。

彼は胸に痛みだか違和感だか、とにかく尋常ではない異状があると医者に訴えた。ネットで調べた情報がかなり当たっていてあせっていた。医者はそういう自己診断的な行為をただ嫌がる人が多いのが実情で、そんなのは自分が信頼関係を築けていない、ちゃんと患者の訴えを聞いていないだけだと思う。
彼の主治医も彼を説得にかかった。
彼は怒りの感情ではちゃんとした話ができないだろうし、感情的になってはますます聞いてもらえまいと必死に感情を抑えて冷静に話を重ねた。

ちゃんと聞いてもらえずに、彼は4人も主治医をかえることになった。これだけでも彼の真剣さ深刻さ必死さがうかがえる。別の医者にかかるというのは大変な時間と労力と金を費す。しかもそこまでするほど体調が悪いのだ。

4人目のドクターに、とうとう彼は激昂した。激怒で接して初めてCTを撮って貰えたら、末期がんで余命1か月だったのである。「怒らないと伝わらないこともあるんですねえ」私は何と答えたか覚えていないが、首肯するような返事をしたはずだ。いい加減にしろ患者をなんだと思っている、舐めるな! 私も相当にそういった思いをさせられていた。

それからの彼の治療は苛烈だった。大体がいきなり余命1か月と言われても到底受け止められるものではない。3か月からでもギリギリだという。彼は36歳だった。コミュニティで知り合った連中は何とか会話を続けた。が、治療のはじめからモルヒネを飲んでいる状態である。本人が書き込まなくても激痛であったのはわかる。心の準備もすることができなかったのに、すぐにも死が迫っていて平気な人はそういない。

たまたまコミュニティにキリスト教徒の看護師がいた。私は未信者(洗礼を受けるに至らない者)だが、かつて諦めたカトリックにもう一度戻るつもりでいる身である。そしてちょっとだけの医療知識と経験があり(患者側)、ずっと人生の哲学のようなものを追い求めてきた。看護師さんは「同情はしません。何の役にも立たず、気休めにもなりませんから」と言った。私は自分の経験から「同情とかしんどいことに焦点を当ててくる人と接していると、ずっとしんどい自分を意識せねばならなくなる」ことを嫌というほど知っているので、自分の考えも一応そういうことであると伝えた。そんなことより時間がないのだ。彼に残された時間はできるだけ楽しいことや喜びで充実したものにせねばならない。それを手伝い分かち合うのは当然のことである。

だんだん彼の書き込みは強気さがなくなり、2回か3回転院し、モルヒネか何かで(病気自体で体力がなくなったのかも知れない)眠っていることが多くなった。

余命宣告から3か月で、彼は永眠した。訃報は家族ぐるみのつきあいとなっていた看護師さんが伝えてくれた。

私は他の人達のようにはすぐに返事ができなかった。酷く泣いた。一番気がかりだったのは「苦しまずに逝ったか」であった。ガンの最期は医療機関やらによって迎え方が全然違うのだ。拷問みたいな最期もある……。

後に私の訪問看護師から、情報からすれば意識が全然なく逝っていると思われるので、本人に苦痛はないはず、とのことだった。そうかなあとも思うのだが、臨終にたちあった経験はない。亡くなったあとの顔を見ればまあわかるとは思うので、看護師を信じることにはした。

コミュニティの方の看護師さんはずっとブログを書いている人で、その話も当然記事にした。日本の医療に心底怒りを覚えると。患者が激怒するまで何人もの医者達が訴えを無視し続け、怒ったからやっとCTを撮った。そうしたら末期がんでもう1か月しかありません、ではないだろう。

私に入院前夜遅く、本人が最初に明かしてくれた話である。よく覚えている。一字一句、というのではないが、怒りや恐怖や疲労を抑えてなるべく朗らかに丁寧に話してくれていたようにも思える。後で聞いたら「勝手に兄貴みたいに慕ってまして」(そのコミュニティでは私の多重人格は皆が知っているので)と照れつつ言ってくれた。そういう彼のブチギレなんか想像できない。穏和とは少し違うが、真摯で誠実で一生懸命伝え合おうとする、優しい男だった。

トーンポリシングという概念(日本では天然に存在すると考えている)が彼をおさえつけていたとも言える。彼は自分にとって怒りを持つことがよくないように思うと言っていたが、持たずに済む場合とそれでは済まない場合がある。また、理路整然と言っては何も伝わらない場合も実はとても多い。彼も怒ってみてそういう考えになったということを言っていた。

冒頭リンク先の内容にはあまり答えていないので少々。

負の感情を見せたりぶつけたりできるのは、通常は相手を信頼しているからだ。が、暴力的にまでならねばならないとすると、本人に別の問題があると思える。そこまでしなければならない場面はそんなにない。必死すぎる。威嚇でコントロールすることに慣れたり快感を覚えている状態であれば、いわゆるモラハラのような問題に展開しかねないし、行き過ぎの感情表現が当たり前になって制御が難しいようでもやはり何らかの助けが要りそうである。

また、怒りがあるのに感情そのものをまるで見せたりぶつけたりできないのも、私の経験や相談に乗ったり自分が相談したりしてきた限りでは、相当の抑圧とか強迫とか言われる、「生きるには不自然なブレーキ」がかかっている状態に思える。怒りを表現するのは必ずしも問題を整然と解決したいからではない。むしろ怒っているのだ、と相手にちゃんとわかって貰えたら気が済んでしまい「あ、いや、俺も悪かったゴメン」となったりするのだ。

ご本人が最後に「どうすればよかったのか」と考えている内容は正しい。つまり、「理解してもらう努力と理解する努力」が人間関係には欠かせない。私が読んでいて強く疑問だったのは「何故自分は怒っているのか、何故こういう怒り方をするのか」という「理由の説明しあい」をする機会は持たなかったのか? ということだった。聞かれなかったのだろうか。第三者に相談せずともそれで当人同士理解できるかも知れないし、私は言われないことはわからない、言ってないことも相手がわかるわけがないと思っている。言ったってなかなかわからないのだから。

何かの参考になれば幸いである。

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