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永遠の「好きかもしれない」

同棲までした彼氏と
付き合って3年を目前に
別れを迎えた。

彼からの告白の言葉は
一生忘れられないだろう。

可愛がっていた後輩の家に
初めて一人で泊まった時に
一緒に入ったベッドの中で言われた
「好きかもしれないです」

「私も好きかもしれない」

そう答えて抱き締めた。

彼の「かもしれない」は
照れ隠しだったのかもしれない。

でも私の「かもしれない」は
本当に「かもしれない」だった。


20代の終わりが迫ってきて、
私は幸せに焦っていた。

「ナナはいつも憧れで男を好きになるから」

何度も私を救ってくれた親友がくれた言葉だ

「自分が幸せになれそうかどうか」
「自分のことを大切にしてくれそうかどうか」
「二人のビジョンが描けるかどうか」

「そこに重きを置いて、好きになれた人なら
結婚してもきっとうまくいく」

好きになる人と結婚して幸せになれる人が
違うというのはよく聞く話だ。
もう恋に恋してられる歳でもないな、
そんな風に思っていたころに出会ったのが
年下の彼だった。


一緒に居て、気を遣わずに
お互いが自然体でいられる

それが私たちが付き合うに至った一番の理由だった。

そこにトキメキがないことには気付いていた。
でも、もうドキドキする恋愛には疲れていた。
安心できる恋愛が欲しかった。
この人と一緒なら、
穏やかに愛を育んでいけるかもしれないと思った。

結論、そこに愛は育つどころか
芽生えもしなかったと今となっては思う。

私たちが愛だと思って育てていたものは
一体何だったんだろう。

私は、彼を愛していたんだろうか。
彼は、私を愛していたんだろうか。
今となってはもう誰にも分からない。

愛するって、一体何なんだろうか。



本当は、行きたいところがたくさんあった。
やりたいことがたくさんあった。
「彼と」ではなく、
「恋人という存在と」。

彼は彼なりに私の要求に
答えようと頑張ってくれていた。
「頑張ってくれていた」。

その幸せの一部を
必死で切り取って
インスタに載せる毎日。

私は幸せなんだ。

一緒に居られるだけで幸せなんだ。

そう言い聞かせるように。


愛とは、尽くすことだと私は思っていた。

少しでも彼の力になりたかった。
彼を笑顔にしたかった。

そのはずなのに、
与えるばかりで返ってこない
プレゼントに苛立った。

我儘を聞いてもらえない度に
愛されていないと感じた。

私は、見返りを求めていた。


ずっと片想いしている気分だった。
でも、それは違った。

片想いですらなかった。
私は、きっと一度も
彼のことをちゃんと見ていなかった。

結局また私は恋に恋していたんだ。

今度こそ、この人なら
自分を幸せにしてくれそうだと思っていた。
それは他力本願で
その未来の中に自分をうまく
描けていなかった。


幸せを計算して言った「好きかもしれない」は
永遠に純粋な「好き」にはなれなかった。

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