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面白くなきこの世を面白く。3

「朝ごはんはいつも和食なんだ。」そう言った
社会的な地位もある一般男性に、は?と思った。

寒気までではないのは、事実をはっきりさせなかった
私が大人だからかもしれない。

事実をはっきりさせたら即嫌いになれる。

米は研いでいるのか?
食器は用意しているか?
箸は?お茶は?
片付けは?

悪いが自分の飯を自分で用意するスタンスのない人間の朝ごはんが何であるか、私は一切興味はない。

気があるのか、無いのか。そこが問題だ。

誰かに用意されて当然と思うなら、ぜひ私と口を聞いてくれるなと思うし。社会にも溢れてる、そんなこと。

人は支え合って生きている。そのことに、1つも当たり前は無い。

そういう認識でいる。

だから、必ず。ではない。当然と思うその濁った心根が嫌いなので。応対はするが、嫌いだ。

美術云々を語る人も、自分の飯は自分で用意するスタンスはあるべきだろうとは思うけど、そうでない場合もあるだろう。だけど当たり前だと思っている、もしくは思ってはいなくとも何のアクションも起こさないなら、思ってないに等しい。私には関係は無いが。

が、嫌いだ。

生命の営みを欠いて、人らしく非ず。

そう、根源を省いた生活は浅く虚しい。そういう心根に触れたくはない。それを嫌いと言う。

毎日馬鹿馬鹿しさすらある、食べて寝て起きて食べて寝て…その営みに、自分の生命に自分が関わって当然だろう。

そして時に、誰かに愛情を注いでもらい、そういう甘い時を過ごしても良いだろう。その時間が刹那に輝くのは自身が自身の営みに常に関わってこそ。そして当たり前では決して無いということを念頭に。支え合う、そんな気持ちを持って行動していたい。

思うだけではだめなんだ。なぜならこの瞬間も生命は営みを止めないでいるから。自分の命は自分だけが預かっている。

人は1人で生まれ1人で死んでゆく。

毎日ご飯を作ってくれた戦争体験者である祖父に育てられ、甘い時間を過ごさせてもらった。私の感性を守り育ててくれた事にも感謝したい。


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