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「支援級はバカなの?」と聞いてきた君へ

わたしの息子には発達障害があって、そのため小学校は通常級ではなく特別支援学級を選んだ。支援級は通常級と違って授業の進み方もゆっくりで、一クラスの人数も少ないので先生の目が届きやすい。それは発達に凹凸のある息子にとって、過ごしやすい環境だった。世間では通常級に通う子の方が圧倒的に多いわけで、だから周りの目が気にならなかったと言えば嘘になる。けれど、我が子が自分に合う環境に身を置けたことにはやっぱり素直に喜んでいた。

それは小学校3年生のときのこと。わたしは付き添い下校のため息子を学校に迎えに行き、二人で家路を歩いているときだった。わたし達の背後から息子を呼ぶ声がして振り返ると、ランドセルを背負った背の高い男の子がこちらに歩いてくるところだった。その子は通常級の6年生で、わたしは初めて見る子だったのだけど、その子には支援級に親しくしている子がいるらしく、時々こちらの教室に来ては談笑しているのだという。息子とはそのときに知り合ったらしい。わたしは息子とその子の邪魔にならないように、横並びになった二人の後ろへと下がった。息子はその子とどんな会話をするんだろうと、耳をダンボにしてちょっとワクワクしていたのだけど、唐突にきたその問いかけに、わたしはぎょっとした。

「支援級の人達ってバカなの?僕のクラスの友達がそう言ってるんだけど」

その子は続ける。

「なんであの子達と仲良くするんだって聞かれるんだけど、なんでダメなの?」

その子はわたしの方を気にしながら、息子に話しかけていた。

まさかそんな話になるなんて。息が止まりそうだった。それは一部の考えかもしれないけれど、そういう見方をしている子がいるということ。それを息子に直接伝えている地獄のような状況に、わたしは面食らってしまった。ちょっと特殊な子達とは仲良くしないで距離を置いた方がいい、そんな考えがあるんだろうか。その子はそれからはあまり支援学級に顔を出すことはなかったようで、3月に卒業していった。

最近よく聞く多様性。人それぞれに違いがあるなかで、いろんな人がいることを互いに認め合い尊重し合おうという考えにはとても共感する。どうなったら幸せと呼べるのかは人それぞれに違うだろうし、幸せを定義づけることは難しい。けれどわたしにとっては障害のある息子が社会から排除されず、穏やかに過ごせる未来が保証されていたらこれ以上嬉しいことはない。みんながみんな仲良くできるとは思わないし、そんなことは望んでいないのだけど、誰かが決めた「普通」から逸れてしまった人を排除しようとする考えは、なくなって欲しいと願ってやまない。

差別や偏見は社会が作ると聞くけれど、もっと言えば大人が作っているのではないかと思う。あの子には近づかない方がいいと身近な大人が言っていれば、子供はその考えに染まっていく。世の中には「仲間はずれにしない」というインクルーシブの考えがあるけれど、幼い子供には障害のある人を排除しようとする考えなんて持っていない。歩き始めた子が公園で遊ぶようになったとき、誰もが楽しめるインクルーシブ公園があったらみんなが当たり前に一緒に遊べるし、小さいときからいろんな子がいることを肌で感じられるからいいよねと考えたりする。それに対してはそう思うのだけど、幼児期の子供って楽しく遊べたらそれだけで楽しい。そこにどんな子がいようとも楽しく遊ぶ我が子の姿があるのなら、いろんな子がいていいんだと思えるのは、むしろ大人の方なのではないかな。

視力が弱い人がメガネやコンタクトを使うことは当たり前に受け入れているけれど、多種多様な人達がいることへの受容はまだまだ遠い。声を大にして障害への理解を訴えなくてもいい世の中になるのは、もう少し先のように思う。「普通」の枠に入らない人にとって、障害のない人が決めたこの社会のルールはとにかく生きづらくできているから、そういう人を異質だからと排除せずに、みんな違っていいんだと寛容できる世の中になって欲しい。そうなれば息子の将来は今より明るくなるから、きっと。

支援級はバカなのかと聞いてきたあの子は、とても純粋な子だったと思う。本当は仲良くしたいのに、けれど友達からの一言で支援級から遠ざかってしまったあの子はどんな思いでいただろう。葛藤する思いがあったんだろうか。それだけが今も心残り。あの子は変わってる子なんだとか、その子とは離れていた方がいいんだとか、なんだかんだと周りは言う。そっとしておいてはくれない。いろんな人がいて当たり前のはずなのに、それを許さない社会はなんて虚しいんだろう。

『みんなちがってみんないい』

そんな未来があったらいいのに。


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