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「そんなんじゃ〇〇になれないよ」について考えてみる

「そんなんじゃ、小学生になれないよ」

この春休みに帰省した時、我が子が親戚の人に言われた一言だった。小学校入学を控えた春休み。思い通りにいかないことがあって子どもが泣き出した時に言われた一言だった。
私は、ふいに自分の頬をぴしゃりと叩かれたような感覚になった。唇を噛みしめて黙る我が子の手を強く握りながら、遠い昔に、自分も同じ言葉を言われたことを思い出した。

私はよく泣いてしまう子で、厳格な祖父に「泣くな」と言われるともっと涙が溢れてしまって、涙を止めたいのに止められなくてとても困ったことを覚えている。その様子を見ていた近所の人に「そんなんじゃ、小学生になれないよ」と言われたのだった。

年齢的に先を行く人にそう言われてしまうと口をつぐむしかなくて、先の未来が本気で心配になった。でも、4月になったら私は当たり前のように小学生になって、なーんだ!と思ったことをよく覚えている。心配する優しさからでた言葉だったかもしれない。でも、時折チクっとした痛みとともに思い出すことがある。

この「そんなんじゃ、〇〇になれないよ」という言葉は、時には反骨心となり人を震い立たせてくれるかもしれない。でも、時として長く呪いになってしまうことがある気がしている。〇〇の部分を変えて、いつまでもついてくるような。

「そんなんじゃ、中学生になれないよ」
「そんなんじゃ、社会人になれないよ」
「そんなんじゃ、親になれないよ」

そして、誰かから言われて傷ついたその言葉を、いつしか自分が自分に向けてしまうこともあるように思う。呪いになっていることに気づかぬうちに「こんなんじゃダメだ」と自分を追い込んでしまうこともあるかもしれない。

何かができなければ、何かになれない。
それは、ある世界では真実なのだと思う。
でも、言葉は思いのほか長く心にとどまることもあると実感している私は、やっぱり言葉を大切に使いたい。(とはいえできていないので、プチ宣言)

小学校の登校初日にびっくりするほどのんびり朝を過ごす我が家の双子たちを見て、「そんなんじゃ…」と言ってしまいたくなる気持ちもあるし、思わず言いそうになる自分もいるけれど、あの日の涙が溢れた6歳の私がぐっと止めてくれている気がしている。




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