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文楽の『シュルレアリズムみ』について

襲名披露公演を契機に、11代豊竹若太夫さんのインタビューがたくさん出てます。一貫して出てくるエピソードが「文楽ってシュールだ」ということ。私も常々、文楽の『シュルレアリズムみ』に惹きつけられてきたのですが、若いころは小説家を目指していたという若太夫さんならではの言語化には「さすが」と唸りました。

「太夫三味線人形お客さんが、人形という木片を焦点に共同幻想が生じて、五感を超える世界が展開される。シュールレアリスムの極致やな」。芸術性を読み取った。

若太夫、十一代目さっそうと 「名人」の祖父、継ぐ 57年ぶり  (朝日新聞デジタル)

「人形という木片を焦点に共同幻想が生じて、五感を超える世界が展開される」

確かにそうなんですよね。現実をそのまま写し取る技術が当たり前の現代の感覚では、昔ながらの人形と、一人の太夫の語り、三味線演奏も1名って、一見、とても簡素に感じます。ただ、その空白があるからこそ、想像力や自分の感覚で補う余地がたくさんあるわけです。その空白に「何を読み取るか」は、自分の心次第。簡素さが生み出す空白が多いがゆえに、五感で感じる以外にも、受け止める自分の心の動きを味わう楽しさがあります。

例えば、近松門左衛門の「心中天網島」という演目があります。若旦那が妻と遊女の間で揺れ動き破滅に至る、というお話。こう書くと分かりやすいのですが、現代人の感覚でいうと、妻と遊女の行動が意味不明。そして若旦那の行動も意味不明。全く持って意味不明な成り行きで心中に至ります。しかも、若旦那は遊女を刺殺し、自分は首吊りする。耽美さも皆無。

このお話は特に「こういう解釈で、こういう味わい方をする」というスタンダードが類推しづらく、その分、登場人物に対して「誰の立場で感情移入するのか」「誰に対して憤るのか」が観客任せになるわけです。はじめは「これはどういう味わい方をするものなのか?」と疑問しか湧いてこないので、識者の感想を読み漁ったりしたのですが、人によって解釈が全然違うのですよね。要は、王道の解釈が存在しえないお話なわけです。

だからこそ、「自分が(直感的に)どういう解釈をしたのか」「誰の立場で感情移入したのか」を後から振り返ると、自分の心の有り様が浮き彫りになる。なので、特に恋愛モノの感想を書くのは、とても羞恥心を感じてしまうわけです・・・。(と言いながらnoteに書き散らしているわけですが)

こういう鑑賞にまつわる心の動き、何かに似ているなぁと思ったのですが、抽象画を鑑賞する時の心の動きと似ていることに気付きました。

抽象画は、現実世界を直接的に描写するわけではなく、作者が何等かの意図をもって造形し、それを読み解く。抽象化しているので一見簡素なものも多いですよね。慣れていないとついつい「作者の意図の解説を聞いて、それどおりに受け止めるべし」と思ってしまうのですが、アートの鑑賞方法ってもっと自由で良いので、作者の意図と関係なく自分なりの受け止めをしてもよいし、なんなら、作者の意図と自分の受け止めのズレや重なりを味わうのも、抽象画の鑑賞の楽しみだったりします。そういう形で何層にも重なる心の動きを、さらにメタ認知的にいろんな角度から味わい尽くす・・それができるようになると、抽象画を鑑賞する楽しみが格段に引きあがります。結局、抽象的な造形物をどう解釈するかは「自分という受信機が何を映し出すか」次第なので、抽象画の鑑賞行為というのは「自分の心を映し出す鏡をのぞき込む」という感じがしています。

文楽もお話によってはそういう面が強く出てきます。18世紀に隆盛を誇った芸能なので、もともとは当時の一般の民衆のエンターテイメントで、そういった「芸術的な鑑賞方法」とは無縁だった可能性が高いですが、当時の価値観と今の価値観があまりにズレているがゆえに、抽象画を味わうような観方をし始めると、とても面白くて深みにはまっていくわけです。正しい解釈なんて横に置いておいて、自分なりの解釈をあれこれ膨らませて味わい尽くす、とても私的な愉しみなんですよね。

なんてことを普段から思っておりましたら、若太夫さんが、文楽は「アブストラクトや!」とインタビューで語っていたので、とても嬉しく思いました。

舞台全体が抽象画に思えて、これこそシュールレアリズムや! アブストラクトや! アバンギャルドや! と、そんなふうに思ったんです。

【文楽太夫】豊竹呂太夫改め豊竹若太夫襲名インタビュー 半生と文楽への思いを聞く (エンタメ特化型情報メディア スパイス)

先ほどの「心中天網島」は映画化もされているのですが、文楽をモチーフにした映像もたくさん盛り込まれていて、まさにアバンギャルド。やっぱり、近松門左衛門の「心中天網島」は、解釈の余地がたくさんあってクリエイターをひきつける魅力があるのだと思います。

ちなみに、文楽の「シュルレアリズムみ」について、シュルレアリズムの画家の作品と黒衣や文楽人形の共通点がとても多くて、視覚表現としても心つかまれる要素があると思います。人形の動きを見て、これ何かに似てるなぁと思ったら、ルネ・マグリットの作品に似ていました。詳細はこちらの記事に書いてます。

とはいえ、文楽自体は「芸術」というよりは「芸能」という要素が強いので、わかりやすいエンターテイメントとしての面白みも多々あります。というか、民衆向けの芸能の中に、当時と現代で価値観が違うからこそ偶然生まれてしまった芸術性があるのが妙味なんですよね。

芸能としての面白みについては、またの機会に書くことにします。

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