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「メレキー・カルファ 後宮女官物語」

 おそらく、一介の女官の名など誰も覚えていないだろう。それがかの偉大なる母后キョセムが帰天するまで仕えた「天使」だったとしても。

 彼女を天使、メレキーと名づけたのは母后ではなく母だった。
その母を亡くし行き場を失ったわたしメレキーを、母后……そのときはまだ皇帝の母「母后」ではなくお妃様、キョセム・スルタンと呼ばれていた女人はオスマン帝国の皇帝が住まうトプカプ宮殿の奥つきへ、後宮へ連れ帰った。

 後宮では異教徒の側女には新しい名をつけるのが慣習だけれど、
おまえは自由人のムスリマだからその必要はない。キョセム・スルタンはそう言ってわずか12歳のメレキーを女官として召し抱えた。
 そのときの感謝と喜びを、メレキーはどう言ったら良いか、わからないでいた。ただはっきりと言葉にできる思いは
「一生この方について行きたい」ということだった。
 キョセム・スルタンを慕う帝都イスタンブールの民と同じように、この方が皆の前を歩いてくださる、そう信じた。

 後宮に来てから2年ほど経ったある日メレキーは、広大な宮殿の庭にその人の姿を探していた。その名前のようにはるか遠くから来た人だ。帝都で生まれ育ったメレキーは、名を聞くだけで胸を突かれ、どんなところだろうと思いを馳せる。
(もしもこの思いが通じたなら、いつか____、いつか一緒に行けるかしら)
「ねえメレキー、早く母上のところへ行こう」
 手を引いていたムラト皇子の言葉にやっと現実に引き戻される。勉強とお稽古事を終えて母上に会いたいという皇子を連れていたのだった。
「ええ、そうしましょう。お母上はきっと白い薔薇の園にいらっしゃいますよ」
その途端、ムラト皇子はメレキーの手を離し駆け出した。
「シェフザーデ!(皇子様)危のうございます、ムラト様!」
木立を抜け、植え込みの向こうにムラトは姿を消してしまった。どうしたものか。メレキーは真っ青になりムラトを探して歩いた。5つにもならない皇子が広大な庭で迷子になったら危険すぎる。無論、皇子が転んで怪我をしたというだけでもどんな罰があるかわからない。しかしメレキーは小さな皇子の身がただ心配だった。
「ムラト様〜! どこにいらっしゃいますか、シェフザーデ!」

 メレキーはムラトを探して庭園と庭園を結ぶ森の道へと足を踏み入れた。ほんの少しで薔薇の園だ。そろそろ日没も近い。日が暮れてしまったら寒くなるだろう。思い切ってこの先の薔薇の園へ向かったメレキーは、意外な、信じ難いものを見る。
 イスケンデルの姿だ。密かに、皇子の手を引いていることも忘れ、そこかしこに見出そうとしていた小姓頭の姿がそこにあった。
 彼は亡きアフメト陛下とイェニチェリの兵舎で試合をして以来の「友人」だという。オスマン皇帝家の高貴な方々も、それでは友を求めるのか。属国から徴用してきた兵士と。それは市井に生きる者のそれとは違っているかもしれない。あくまでも皇族と従うべき下僕なのだから。
 イスケンデルは白い薔薇を摘むキョセムの後ろにひざまづいていた。キョセムは冷たく憂いた顔で薔薇を愛でている。暗い緑色のカフタンが薔薇の葉の色と似て、さながら薔薇の中から生まれ出たような姿だった。白い面差しが傾いた日の光に透けるように見える。
「昔のことは忘れなさい、イスケンデル」
「アナスタシア!」
 キョセムは言葉をつづけようとするイスケンデルを手で制した。
「ふりかえりもしないんですね、お妃様」
「アナスタシアはサフィエ様に殺されたのよ。もういない」
 この状況はなんなのだろう。どういうことなのだろう。アナスタシアはキョセム・スルタンの昔の名前なのか、それがサフィエ・スルタンに殺されたとは? すべてはメレキーが後宮に来る前の出来事で何も分からない。
 一つだけわかってしまったことがある。イスケンデルの声が容赦なくメレキーに伝えてくる。拒まれた者の失望と怒りと、それでもわずかな望みを捨てきれない声だ。何があったか知らないメレキーにすら伝わってくる。

イスケンデルはアナスタシアだったあの女人に慕情を抱いている_____。

(仕方ないのよね、お妃様は陛下のお妃なんだもの。昔に何かあったとしてもどうしようもない。でも、イスケンデル殿はそれでも?)

目にした光景に考えが追いつかないメレキーは、ともかくムラトを探さねばと思い直した。

「メレキー、みぃつけた!」
そのとき、ムラトがメレキーの衣の裾を引っ張った。
「ムラト様!!」
 気づいたキョセムが遠くから声を掛ける。
「ムラト、そこにいるの? メレキー?」
ムラトがいてほっとしたメレキーは力が抜けてしまった。
「もう、どこにいらしたんですか。心配したんですよ!」
キョセム・スルタンが笑いながら二人を呼ぶ。
「我が獅子はどこにいるの?」
「は、はい、こちらに」
メレキーがムラトを伴って前に出ると、そこにはいつもの
美しく頼もしいキョセム・スルタンの笑顔があった。

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