見出し画像

ちょっとしたことに心動いてしまう弊害

教室で、6月の自分の担当パートである
木曜クラスを終えた。長い1日、と振り返るが、過ぎてしまえば一瞬だ。
今月から、完全オンラインから、オフラインクラスが始動した。初日。

午前中は、少人数制(3人)クラス
       ↓
1.5h後に、同プログラムでオンラインクラス
       ↓
事務作業やメール対応をしながらランチ、会社のslackでDMだけチェック
       ↓
1hの自主練と夜の少人数クラスの準備
       ↓
少人数Bクラスの開催・参加
       ↓
少人数制クラス、オンラインクラス開催期間を含む数か月分月謝会計
       ↓
スタジオ掃除、急ぎの事務作業、先輩からのFB
       ↓
終電で帰宅、セブンの飲むヨーグルトを飲みながら 振り返り

身体はクタクタだけど、最近妙に書きたい欲・伝えたい欲が沸いてしまって
さっきも帰りの電車に乗りながら、今が終電の時間帯であることを忘れて
会社の人に何通もメッセージをしてしまった。。反省。

という、1日の中を終えようとしている。

突然だけど、私は
きっと、あなたにとっては小さいことに
心が動いてしまう、タイプなんだと思う。

傷ついたり、飛び上がるほど喜んだり、急に泣き出したり笑ったり、
1のコメントに100返したり、、

特に、最近すごく、自分の人生の節目であることを感じている。
節目には、"死を意識する" 機会が増える。
そして、なんだかリアルに想像してしまう。

おじいちゃんが死んでから、数年、おばあちゃんに
母の日にはお花を贈ることにしている。

今年は、繁忙期の市場の母の日の時期を少し避けて、
おじいちゃんの命日に合わせて
Lifft というサブスクのサービスでお花を贈った。

良い言葉が思い浮かばないのだが、私は、
生前のおじいちゃんとめちゃくちゃ仲良かった訳ではなかったけど
いつも、おじいちゃんおばあちゃん家に行く度に、なんとも表現できない、
愛を感じていた。

なんだろう。この写真が届いただけで、その日は一晩中、泣いてしまうのだ。ああ、ありがとう。本当に生きててくれてありがとう。
今も、見守ってくれてありがとう。
ただただ、そう思って、泣いてしまう。

おじいちゃんが亡くなったのは、私が二十歳の時。
当時、たくさん新しい挑戦をして、二十歳の誕生日に合わせて
ハワイに行きたい!と話していた頃、元々持っていた
持病から容態が急変した。
ハワイの渡航中(8月)は、元気だったが、成人式の振袖姿を
一目見せたいと病院に行った頃には、反応をすることも儘ならなくなっていた。そして、それから約100日後に逝った。

(先日また、「かわいいお花届いたよ!」と写真付きの報告のメールが届いた )

そして、今日、犬の定期健康診断?の結果を聞いた。


「うちの犬種にはよくあるって言うけど、心雑音がするって」

なんだろう。「そうなんだ~確かによく聞くよね」と返事をしたものの
5秒後には、犬の未来に思いを馳せて、涙が止まらなくなってしまった。

なんでだろう。自分が変化して大きくなっていく時
周りの変化のエネルギーも大きく感じて、受け取ってしまうのか。

きっと、あと数年は、大丈夫だ。根拠はないけど
一緒にまだまだ人生冒険する時期だから。逝かないで・・。

今日も会社は沢山のやりとりで溢れていた。

最近、人がどんどん増えていて
みんなが同じ土俵で、共通認識を持ち、目指すべき方向性を考え、
確かめ合う時間が増えている。

それは一見良いことだけど、一部の人たちが新入社員を
フォロー・バックアップをしていて、不思議な現象が起きている。
それ、あっちでもこっちでも、会話してたよ!みたいな。
同じ空間にいるんだから、一度に教えてもらった方が手っ取り早いよ!みたいな。

こういうことも、妙に自分が悔しくなってしまう。
何かオンボーディングの改善方法はなのか?と。
もっともっと、本当はよくなれることだから。

数字を追う、ということは
誰かが一人で一生懸命頑張って、
涙することではないなあと思う。

協力できることは、本当に協力したいし
発信したいなあと。

何はともあれ、今日も1日が無事に終わることに感謝。
死という、誰もが向かう未来に、丁寧に向かいながら
明日も、もっと、生き生きといよう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?