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「考える私」の危険思想について


久しぶりの投稿になりました。最近何かとバタバタしていて、考えること自体は継続していたけれど、こうしてまとまった文章にするのは大分ご無沙汰な感じがします。嬉しいな。

さて、最近考えたこと。

私は考えることがとても好きで、おそらくnoteのコミュニティにも、同じような人がたくさんいます。考える領域としては大体自分についてが6割、他人についてが4割程度のバランスなのですが、後者の「他人について考える」ときは少し注意深くならなきゃいけないな、と思いました。


自分については、ご自由に

「他人について考える」ことの危険性について述べる前に、まず自分の場合はどうなのかについて。

結論としては、「どうぞご自由に」という感じです。私はこういう人間だ、とか、何が好きで何が不得手かなんてものは(それが楽しい限りにおいて)好きなだけ考えていい。自分のこういう部分が嫌だな、って思ったらそれを変える努力をする契機にもなるだろうしね。(これについてはまた今度詳しく書きたい

そういえばこの間恩師とご飯に行ったときに、「〇〇は考えることが心底好きだから、それなら一人でいても十分楽しいって思えちゃうだろうね」と言われました。これは本当にそうで、誰かと楽しく過ごす時間も大事だけれど、一人で物思いに耽る時間がないと息が詰まってしまうだろうなぁと思います。正直自粛タイムが結構好きだったりもする。あんまり苦じゃない。


他人について
考えるだけならいいけど、変えようとしてはいけない

(あくまで他の人に押し付ける意図はなく、自戒に留まるのでこんな言い方をしておりますが…)

「もしかしたらこの人の言動には、こんな配慮が背景にあるのかもしれない」とか、「この人はこういう交際スタンスなのかもしれない」とか、他人がどうあるのかについてはいくらでも考えていいと思います。(最近はそれを本人に伝えてビビらせてしまうことがあるので反省)

ただ中にはどうしてもネガティブなところに着地してしまうものもある。個人的にはそういうのはすぐに「無関心ボックス」に投げ入れてしまうので、そのせいで相手のことを嫌いになったりするようなことはないけれど、どう頑張っても自分と相容れない部分が意識に上ってしまうこともあります。

そのときに相手を自分好みに変えようとしてしまったら、それは危険思想だと思います。「もっとこうしてほしい」とか考え始めたら、即アウト。ピピー!思想の他者強要で現行犯逮捕!って感じですね。

他人をモノとか関数として扱うのがあまり好きではないけれど、こと他人をテーマにした思考においては、それが便宜的にベストかもしれない。他人なんて変わりません、と思う。いわば石だ。意思のない。(思いがけず韻を踏む)
というか思考のテーマに据えてる時点でめちゃめちゃ対象化してるしなぁ。あんまり倫理を追求すること自体、お門違いかもしれない。これまで思考の対象にしてしまった各位、ごめんなさい。

もし肌に合わない部分があったのなら、無関心の域に落とし込む。それでも側にいるのに限界を感じてしまうのなら、自分が相手から距離をとればいい。思考なんて大抵ひとりよがりなんだから、それを根拠に他人を変えようだなんて、おこがましいこと この上ない。


こんな風に考えられるようになっただけ、私も成長したのだと思います。
思い起こされるのは過去の恋人のことで、そもそも「別れない」(=自分が相手から距離を取らない)ことを前提としていたから、いつだって相手と、過度に自分を変えようとしてしてしまった。息苦しかったよなぁ。申し訳ないことしちゃいました。


つまるところ、how they are を考えるのはいいけど、how they should be まで踏み込んでしまったら、一回頭を冷やそうということです。なんかすぐカタカナ語を使う人みたいでちょっと嫌だな。厳密には違うんだけど。


私から発する思考なんだから、良く使うも悪く使うも全て私次第。
うまく飼い慣らしていきたいなと思いました。


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