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ある冬の朝、パリを想うこと

自転車に乗って十一区のアパートを出る。

冷たい風で耳が痛い。キャスケットじゃなくニット帽を被ってくればよかった。まだ夏時間だけど、朝はすっかり冬だった。夏と冬の個性に押し潰され秋はどこへ行ってしまったのだろう。秋を感じるのは近所の八百屋で南京と葡萄を見かける時くらいだろうか。

自転車を漕ぎ、パルマンチエ通りを北上し、ヴォルテール通りへと抜ける。夏時間が冬時間に変わる前の朝は特に暗い。見上げると灰色の分厚い空が建物に切り取られている。

六時一五分。

七時前に郊外の撮影スタジオへ着かなくてはならない。カメラアシスタントの朝は早いのだ。早朝の空気は薄いガラスのようにキンキン響いている。いつになってもこの街の寒さと暗さは好きになれないが、朝の空気の無情さは嫌いじゃない。肌に感じる冷たさが今日も生きているのだと思い出させてくれるようで。

この時間はまだ自動車が少なく、代わりに大きなトラックが行き来する。自転車のライトを点ける。自転車ライトは自分の通る道を照らすためじゃなく、車や通行人、他の自転車たちに「自分はここにいるよ」と見つけてもらうためにある。そう教えてくれたのは近所のバーのマスターだった。都会では一歩外へ出ると、常に自分の存在を訴え続けなければ、瞬く間にトラックに轢かれ消えてしまう。それくらいに、人ひとりの存在は薄い。


パリの朝は青みがかった灰色で、陽が昇るまで景色にほとんど色がない。小さな自転車ランプのボタンを数度押し、光量を最大にする。目の前に散らばる昨日のゴミがぼんやりと浮かんでは過ぎ去って行く。下を見ればこの街はひどく汚い。目線を上げ、意識を建物に集中する。重厚で均一な石造りのアパートが続いている。
直線的な大通りを張り巡らし、統一した建築スタイルでパリの景観を一新したのはジョルジュ・オスマン。十九世紀のことだ。彼の功績には賛否両論あるが、巨大なものを意のままに並び替え整頓したいと願う威圧的な美意識は理解できる。入り組んだ小道を排除したのは、汚物が放棄され、豚は放し飼いにされ疫病が蔓延していたパリの街を清潔にするため。そして街の影に隠れて生きる人々を一掃するためだったと聞く。

ヴォルテール通りを抜けるとリパブリック広場に鎮座する自由と革命の象徴マリアンヌ像が目に入る。八方から大通りが集結するこの広場は、時として暴徒と化すデモ参加者を抑え込み制圧し易いように、逃げ道のないデザインにされたそうだ。自由と革命の足の下、我々の行動は気づかぬうちに都市計画によって統制されている。

広場を離れサン・マルタン運河へ続く通りへ進む。これから仕事へ向かう人たちと、家路につく人たち。日中には決して関わることのない人々が、朝のこの一瞬にすれ違う。しかしお互い目を合わせることはない。

パリには珍しい彩鮮やかな建物が並び、朝から爽やかなサンマルタン運河沿いは通勤自転車で混雑する。ペダルを踏む足に力を入れ、上り坂を一気に駆け上る。運河を左に横切ると、そろそろ朝のパリで一番好きな通りに到着だ。

メトロ二番線ラ・シャペル駅へ繋がるルイ・ブラン通り。

東駅から郊外へと続く線路を覆うヤン・カルスキー広場を抜けると空気の匂いがガラリと変わる。ここはまるで、インドだ。短い通りを堪能するために自転車の速度を落とし、息を深く吸う。他の通りでは嗅ぐことのないクミンの香りが鼻をつく。冬の始まりに似合わない青々とした街路樹が道を両側から覆う。通りに連なる店の名前はガネーシャだとか、エキゾチックマルシェだとか、明らかに異国風だ。ここを通ると学生の頃に旅したインドを思い出し懐かしい気持ちになる。カルカッタの朝、雨上がりの街の熱気とあの香り。空気の密度。緑の青さ。ここに住みたいとインドで強く願ったあの気持ちをパリで思い出すことになる不思議。
この道を通るなら朝の早い時間が良い。なぜだか昼間や夜に通っても、朝ほど懐かしい気持ちにはない。
二十代前半だった私はインドに住むかパリに住むか迷いに迷った末、いま日本から一万キロ離れたこの街にいる。あの時パリを選んだのは正しかったのだろうか。インドに居を移していたら、どんな二十代を過ごしたのだろう。たとえば全く違う街で全く違う経験をしていたら。でも幾多の経験を経てたどり着く先にいる私という人間は、どの道を通ってきても結局同じなのかも知れない。

ラ・シャペル駅でメトロ二番線の高架を越えると途端に景色が変わり郊外だと感じる。ここ数ヶ月ずっと工事中のガタガタ道を進む。旅行客なら絶対に来ない場所だろう。パリに住んで随分経った今では慣れたものだが、初めてこの辺りへ来た時は一瞬息を呑んだ。ブラジルからの留学生のシェアアパートに呼んでもらったのだが、あまり遅くならないうちにお暇した。
キッチンにある大きな窓から見えるのは行き交う車だけ。その殺風景な様子を眺め、こんな景色を見ながら暮らすパリもあるんだと思った。住む場所の選択は経済状況と価値観を如実に反映する。窓から見た眺めは覚えているのに、アパートの内装は全く思い出せない。でもキッチンでひとつの鍋を囲んで食べたブラジルの郷土料理だという豆の煮込みが美味しかったことは覚えている。一年という決められた期限でパリに来ていた留学生のあの子たちは今どこで何をしているだろう。なりたかった何者かになれただろうか。

トラムの駅が見えてきて、回想に浸るのをやめる。トラムの線路を渡ったら、高速道路ペリフェニックへ向かう自動車で入り乱れる大通りを渡らなくてはならない。一度間違って高速道路の方へ進んでしまってびっくりしたことがある分、一旦気を引き締め慎重に進む。この道は苦手だ。朝からイライラしている車の間を掻き分け進まなければならない。

高速道路へ向かう大通り横の空き地は路上生活者のキャンプ場になっている。早朝でも火が焚かれ、うごめく人集りが目に入る。歩道にもちらほら人がいる。路上生活者が怖いとは思いたくない。でも奇声をあげる人、足元のおぼつかない酩酊状態の人がいると怖い。飲み会での酔っ払いしかり、理性の働いていない人間は本能的に避けたくなる。たくさんの人がたむろしている場所はそこがバーであれ、コンサート会場前であれ、下校時間の高校であれ、自然と警戒してしまう。

しかし注意していても、ただ歩いているだけで見知らぬ人から暴力を振るわれることもある。以前オーベルカンフ通りを夫と二人で歩いていた時、ブツブツと何か不機嫌な言葉を撒き散らす男が後ろからついて来て、突然夫が殴られたことがあった。その一瞬は映画のようにスローモーションで現実味がなく、私は呑気にも『チャオパンタン』というフランス映画のワンシーンを思い出していた。主人公が不意打ちの攻撃にあった時、主人公の彼女がサッと銃を拾って立ち上がる。その俊敏な頼もしさに果てしない好感を覚えたものだった。ところがどうやら現実の自分は映画のようにはいかなくて、もっと鈍いらしい。こういうとき動けなくなるというのは本当で、すぐに反撃できるだけの反射神経を私は持ち合わせていなかった。幸い、通りにいた人たちがすぐに駆け寄り止めに入ってくれたお陰で助かった。パリは日本に比べて治安が悪いかもしれないが、見て見ぬ振りをされることがないのが心強い。

初めて高速道路の高架下を通った時は少し怖かったのだと同僚に話したら、「不法占拠して住んでいる人たちの方が警察の厄介になりたくないだろうし、揉め事を起こしたくないって思っているから何もしてこないよ、大丈夫だよ」と言われた。なるほど、確かにビクビクしたのは初めの数回だけで、誰も私のことなど気にしていないとわかると慣れた。路上生活者のキャンプ場は壊れたフェンスで覆われているが、そこにはフェンス以上に強固な見えない壁があったのだ。

いや、人と人を分断するのは威圧的な都市計画でも朝の眠気でも、壊れかけたフェンスでもない。私の心にある偏見や差別、先入観や無知、知ろうとしないこと、見ようとしないこと、心の中にあるのに普段目を向けないようにしているそういうもの、全部なのだと本当はわかっている。

コロナが流行った時、またこの辺りを通るのが怖くなったことが一度ある。ロックダウン明けにツイッターで、コロナは中国人のせいだ、中国人を攻撃しよう、と呼び掛ける人たちが出て来たのだ。普段アジア人への差別発言は話題になることすらないのだけれど、この時はなかなかの反響があったようで、警察も重い腰を上げ取調べを行った。それぐらいの事件だった。いろんな人が住んでいるこの街にいると、時々自分がアジア人であるということを忘れてしまっている。中国人たち大丈夫かな、と思っていたが、フランス人から見れば私も中国人なのだ。ツイッターでの呼びかけが盛り上がっていたのは、アジア人の多いパリの一三区とパリ北方面の郊外。だから北方面の郊外にあるこの撮影スタジオへ向かう時はマフラーをしっかり巻いて帽子を深くかぶった。でもこうやってコソコソするのが本当に正しいことだったのかは分からない。


一息に高速道路の交差を抜けると、あとは道なりに直進するだけ。崩れかけたような開けっ放しの正門をくぐるとラ・ファクトリーというスタジオのピンク色の扉が見える。ここが今日の仕事場だ。

パリに住んで六年と少し。たくさんの道を行き、たくさんのことを考えた。嬉しいことと悔しいことを繰り返し、やがて見知らぬ言葉に慣れ、仕事を見つけ、結婚し、異国の街に生活を築いてきた。時々自分が外国人であるということを忘れてしまうけれど、いつまで経っても自分は余所者だったと突きつけられることもある。それでもこうして暮らしていけているのは、私のことを知ろうとしてくれる人がいて、その中で少しづつ、自分の居場所というものを、作り上げてくることができたからだろう。

立ち止まって辺りを見回すとき、知らない道へ足を踏み入れてみるとき、この街が私を受け入れてくれたように私も、相手を判断する前に聞く耳を持ちたいし、自分の目でものを見たいと願う。私はこの街を通り過ぎる余所者でしかないけれど、でも良き観察者にはなれるのではないだろうか。


七時五分前。空が少し色を帯びて来た。また一日が始まる。




※季節感が全くずれてしまいましたが、冬の始まりの日に書いたエッセイでした。


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