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技術哲学とは何か−−人とテクノロジーの関係を捉え直すために

技術哲学とは何か? 日本では,情報が少ないので,noteに基本的なことを書いておきたいと思います.先日ある出版企画の一環でインタビューを受けた時に話した内容を元にまとめています.


私が今日お話ししたいのは,一見マイナーに見えますが,現代において非常に重要なテーマを扱っている「技術哲学」についてです.技術哲学は,テクノロジーとは何かという問いから出発し,テクノロジーに関して哲学的に論じることで,テクノロジーにまつわる社会的問題を考察するのみならず,よりよいテクノロジーと人や社会の関係を実現するための技術設計や倫理,法規制などへの応用を視野に入れた哲学の一分野です.

この分野については,ここ数年,私自身も深く関わってきましたし,時代の流れからも,これから注目が集まるであろうと予測しています.しかし,この技術哲学は,一般にはあまり知られていません.

今日は,序論として,本当にサラッと私なりに全体をなぞってみたいと思いますが,まず技術哲学は,「テクノロジーはただの道具ではなく,人間や社会のありようを形成する(shape)ものだ」という共通理解の上に成り立っているということをお話ししておきます.そてそれはどういう意味でしょうか.


技術哲学的問いのルーツとしてよく挙げられるのが,プラトンのプロメテウス神話とパイドロス,そしてアリストテレスのテクネー論です.

プラトンのプロタゴラスのプロメテウス神話は,ほとんどの技術哲学書で引用されていると言っても過言ではないお話しです.人間は生まれながらに欠陥動物であり,道具などのテクノロジーで補うことで初めて他の動物のように自分で生きることができているのではないか(補綴性)という,エンハンスメントの議論やサイボーグ論,フランスの技術哲学者のスティグレールなどが扱う技術の根源的なテーマを,すでに扱っているのです.

また,パイドロスでのある逸話もよく取り上げられます.文字を発明したテウトがより多くのものごとを記憶できると主張するのに対し,タモスがそれによって思い出す能力を失うとのべていますが,新たに生まれたテクノロジーを導入する際に陥るテクノロジーのジレンマを早くも扱っていたと解釈可能です.

そして,アリストテレスのテクネー論は,そもそもテクノロジーは何か(新しいものや芸術的なものなど)を生み出す(ポイエーシスする)行為なのだという原点を思い出させるものです.

こうした古代の知恵を参照しつつ,技術哲学の研究は行われてきました.


哲学書などを読まれている方は,技術哲学というと思い浮かぶのはハイデガーやアーレント,フランクフルト学派かもしれません.それらの哲学者たちは,テクノロジーはただの道具ではなく,人間や社会を悪くするものであると主張し,現代のテクノロジーに対して非常に厳しい批判を行っています.

ハイデガーによれば,現代のテクノロジーは,自然や人間を資源として消費可能なもの,つまり「在庫」に変えてしまう存在です.水力発電であれば川を,生産技術であれば人間を資源にしている,といった具体的な例がこれにあたります.ハイデガーのいう,テクノロジーのせいであらゆるものがシステムに駆り立てられていくという「Ge-stell(訳語は、ゲシュテル、総かり立て体制、集-立等 (英語ではenframing) こちら参照」は,技術哲学におけるキータームです.そして,ハイデガーはアリストテレスを引用し,古代のテクネーでありアートが本来のあるべき技術の姿だと主張します.

また,いわゆる「技術決定論」的な考えの技術思想家も多くいます.これは,テクノロジーはただの道具ではないどころか,人間や社会のあり方を「決定する」とする考え方で,楽観的な方はテクノロジーカルトです.例えば,シンギュラリティ論のレイ・カーツワイルらですね.

それに対して,反対に悲観的な見方をするとディストピア論者になります.カジンスキーらでしょうか.これは,技術が人間や社会に悪影響を及ぼすだけではなく,決定的にダメにすると考えます.戦後の思想家に多くみられました.ハイデガーも,見方によっては現代のテクノロジーに対して技術決定論的に捉えているとも言え,こうした論者は,いにしえのテクノロジーに価値を感じる懐古主義的なところがあるというのが特徴です.


これらの見方は,それぞれの固定的な立場を持ち,なかなか交わることのない水と油のような存在でした.一方で,例えば技術を批判しているだけでは,現実の技術の存在に対して十分な理解が得られません.誰でも私たちは日々,技術を使っていますし,その全てが悪いとは言えません.また楽観的な見方をしているとテクノロジーが引き起こす様々な問題に無頓着になりがちです.そこで,1980年代以後の一連の科学技術社会論(STS)の発展,つまり社会構築主義(Social Constructionism)からその流れの技術の社会的構築(SCOT)などの諸流派,さらにはラトゥールらのアクターネットワーク理論の影響を受け,1990年代に,技術哲学において「経験的転回」が起き,技術決定論や悲観的な見方から離れて,技術をその使用や経験から考えるべきだという人たちが主流になりました.

そのトレンドの中に,ポスト現象学が含まれています.これは,主観と客観を超えた立場から物事を捉えようとする現象学の派生系で,この学派では,技術が知覚や認識の媒介として機能し,人間 - 技術 - 世界という人間-技術関係を形成していると考えます.

ポスト現象学を興したドン・アイディは,この関係性を四つの関係性に整理しました.この身体化関係は,例えば斧を持つと斧と身体的に一体化していますね,という意味で,いわゆるメルロ・ポンティらの身体性の哲学や,ハイデガーがいう道具的存在として語られてきた関係を指します.解釈学的関係は,例えば,さまざまな計測的な技術を指していて,世界のありようを現代人はデータによって理解していますが,そこにはテクノロジーの「解釈」が入っているというわけです.そして,他者関係は,ロボットやAIのようなエージェント型技術,背景関係は,それらのテクノロジーの背後にあり,見えなくなっているインフラなどを指します.

この四つの見方から出発して考えつつ,例えばこの枠組みに収まらない人間-技術関係は,別途,フレームを用意して考えるといったことが,技術哲学の研究においてよく行われています.

また,この関係の真ん中に位置付けられる技術が,人間の道徳的行為を媒介していると主張したピーター=ポール・フェルベークの「技術の道徳化」は,日本語で読める数少ない技術哲学書の一つです.先日の国際技術哲学会でも多くの研究者がこの書籍からの引用を元に発表をしていたような現代の技術哲学を代表するような重要な書籍です.(この書籍の最後に技術哲学の系譜まとめも掲載されています(このnoteもそれを参照しています))

そして,現代では,技術哲学も例外ではなく,(人文系の)「ポストヒューマニズム的転回」の最中にあります.フェルベークの「技術の道徳化」も,そうした宣言をしたあとに書かれています.したがって,AIやロボットに行為者性が認められるのかどうかといった議論が盛んに行われています.


一方で,現代の技術哲学は,ポスト現象学の誕生以後に,大きな理論的な発展を遂げていない現状があります.先ほどの行為者性の議論も,様々な立場が混在しており明確な全体像は見えてきません.人間とテクノロジー,世界の関係をその経験や使用に基づいて捉え直すというのは良いのですが,技術哲学が直面している困難さとして個人的に感じるのが,現代のようなテクノロジーが人間や社会のありようを大きく変えている中で,果たして人間とテクノロジーを分離して分析することは可能なのかという問題です.例えば,それはAIが起こした問題なのか,人間が起こした問題なのか,責任帰属をどうしたら良いか悩ましい事例などが今後出てくるでしょう.その場合に,そうした責任帰属という考え自体を見直す必要さえ出てくるかもしれません.

そうなると,そもそも人間とは何かを捉え直す必要が出てきまます.近代化以後ののあらゆる社会システムは,自由な意思決定ができるがゆえに責任を負うことができる自律した自己(近代的自己観)を前提にしていますが,果たしてそれは現代でも正しい人間観なのでしょうか.

それをポストヒューマニズム的な自己観やサイボーグ的な自己観へと変容させていくことが正しいだろうと考える人たちが出てきました.アンディ・クラークの生まれながらのサイボーグやマクルーハンの人間拡張論など,サイボーグ的な人間観への捉え直しの必要は繰り返し解かれてきました.これは,ある意味で当たり前のことなのですが,人間はテクノロジーと共に常に行為をし,その自己の中にさまざまなテクノロジーが埋め込まれているというのが,私たちの実際の在り方なのです.

しかし,こうした自己の拡張は,近代的自己観に反するため,なかなか受け入れられにくいのみならず,そうした拡張した自己を前提にした社会システムの構想は十分に行われておらず,果たしてどのような社会が可能なのか,いまでも検討が必要なテーマです.


私はこうした技術哲学を学び,まず,テクノロジーと人の関係性(これを human-technology relation と一つのテーマとして技術哲学では議論しますが)を,自在にとらえ直すことを可能にする事が必要だと考えています.そうした考えから,技術哲学の教科書本の翻訳を研究仲間と企画し,監訳者の協力をえて今年無事出版することができました.こちらの書籍には,上記の内容も含まれています.

残念ながらこの現代の日本では,テクノロジーに対して楽観的または悲観的な視点や,技術決定論的にテクノロジーが人間や社会のあり方を決定する,その反対に,テクノロジーは道具に過ぎないといった視点など,固定的にとらえている人が,役人から工学研究者,人文系研究者,エンジニア,デザイナー,経営者までほとんどです.

現代の技術哲学を学べばわかりますが,その答えはそのいずれでもありません.人とテクノロジーの関係性は固定的なものではなく,つねに環境や時代,人や社会によって変わりうるのであり,多様なのです.また,宇宙技芸論を提唱する中国の技術哲学者であるユク・ホイは,テクノダイバーシティという言葉を用いますが,そもそもこの技術哲学自体が,西洋的なテクノロジー観に支えられたものであり,例えば東アジアには,中国や日本の文化であり宇宙観に支えられたテクノロジー観があるはずなのです.こうした観点からも,テクノロジーをとらえ直す必要があります.つまり,現代の西洋の技術哲学から学べることは,一方で限られているということなのです.

以上になります.noteに続きを書く予定でしたが,このnoteがきっかけで,WIREDで連載させていただくことになりまして,このnoteの続きはこちらのWIREDさんのサイトでご覧ください.第一回と第二回はこのnoteの内容の発展版です.(会員向けサイトです!)


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