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脱「ゲシュテル」は可能か?:生産性向上というテクノロジーの宿命の果てに

「ゲシュテル(ハイデガー用語のGestell.総駆り立て体制や集-立などと訳される)」について意識研(シーズン2−2)で取り上げられた.このシーズン2では渡邊淳司さんを迎えウェルビーイングテクノロジーを議論している.今回は私の研究テーマでもあるので前のめり気味だったが「ハイデガーがなんと言っているかとは全く関係なく議論しましょう」ということだったので,若干,私が理解しているゲシュテルとは違うゲシュテルを問題にしているのかなと話を聞いているうちによくわからなくなってしまったのは残念だった.そこで以下,感想含めて私なりの理解と考えを.

私の理解では,ハイデガーは,ゲシュテル(Gestell)をmodern technology によって,人々が世界を生産性や効率という観点を中心に見るようになること,そのように駆り立てられていくこと.そして,そうしたあり方を社会のほとんどの人がしていると社会もそうしたものとして機能すること.そういう「あり方」のこととして表現している.

ちなみにGestellの訳には「集-立」「総かり立て体制」といった言葉が当てられている.英語では,"enframing".参考までに,ハイデガーの技術哲学用語については以前こちらにまとめている.

とくに人々が世界をそのように見ること,つまり,労働や教育に顕著に現れるように,人は時間あたりの効率性によって,また自然も利用価値によって良し悪しを判断するというのは,近代以後の現代社会では常識であり,社会における規範がそれによって構成されていっている.しかし,このことは大きな問題なのだ,いや危険だとハイデガーは言う.本研究会でも,こうした在り方は,この意識研のシーズン2がテーマにするウェルビーイングに反するというわけだ.なので,どう脱ゲシュテルするのかというお題が投げ込まれた.

私は,そうしたあり方は,本能的により豊かな暮らしを求める人類が,産業革命以後に桁違いのエネルギーや情報量をうむテクノロジーを手にしたことで,ある意味でテクノロジーにうまく適応できないまま一気に作られたのだと理解している.そうして,原子力発電所のように人類の手に余るゲシュテル機構も熟慮がないまま次々と作られていった.全人類総体としての傾向性とテクノロジーの性質から,ゲシュテルの方向に必然的に転がっていってしまうこの流れにどう抗するのか,または成熟させるのかを考えることになる.

しかし,そもそもこの「全人類的行為」ともいえるゲシュテルに抗することは可能なのだろうか.いきなりこう言ってしまうと驚かれるかもしれないが,それは無理な問題だ.この問題の大きさは「途方もない」.このことをまずは強く認識する必要があると私は考える.これは,政府が規制をかけるとか,設計者のデザインや使用者の使い方でどうにかするという解決策では,どうしようもない次元の働きが引き起こす近代文明がかかえる巨大な(そして古典的でもある)問題なのだ.

そこでどうしたらいいのか?抵抗は「諦める」しかない.これがゲシュテルに対しての重要な一つの結論だと私は考えている.抵抗してもしょうがない.なぜなら,テクノロジーは全人類的行為なのだから.しかしそれは「明らめる」ということでもあると.

つまり,そうした途方も無いものだということを,骨の髄まで理解した上で,さてどうするのか.ハイデガーは詩人に答えを求めたが,やはり理性で捉えるには限度がある.この話を,意識研メンバーの藤野正寛さんに話したら,こうしたどうしようもない事態に対峙するときに必要な能力を「ネガティブケイパビリティ」と呼ぶんだよと教えてくれたが,まさにこの問題を解決しようとするのではなく,漂わせておきながら焦らず熟考することが大事だろう.(シーズン2の初回に出たウェルビーイングの「目的なき合目的性」の話もここに通じると思う.)

また,ティモシー・モートンはコロナや海洋プラごみなどもはや普通には対応も認識も不可能な巨大な対象となってしまったもののことを「ハイパーオブジェクト」と呼んでいるが,当然テクノロジーやゲシュテルの問題もハイパーオブジェクトだろう.それに対峙するには何が必要か.言葉遊びにはなるが,それは「ハイパーサブジェクト」だと.もはや主観的な判断を超えた超越的な主観(ハイパーサブジェクト)とでもいいたくなるような次元でしか,これを扱えない.しかし,そういう覚悟を持って,テクノロジーに接していく,そういう精神性というのは可能なのではないか,とも私は考えている.そこにしかこの問題の救いの道は開けないのではないかと.

もちろん,私を含めて,そのような覚悟を持って,テクノロジーと対峙している人はいない.電車に乗る時,電気のスイッチを押す時に誰もそこまで考えたことはないだろう.しかしその反省は必要なのではないだろうか.AIなどますます高度なテクノロジーが社会に浸透していく中で,現代人は,いうなれば高度なテクノロジー観を養っていく必要があるのだ.つまりテクノロジー観の成熟の必要性である.

では,それをどう養っていくのか.


まず,1つ目の答えが,能力の話.

その精神性を,例えば,日本の職人が「道具」に対して持っていた姿勢やその精神性からヒントをえることはできないだろうか.一生世話になるテクノロジーなのだから,一生涯かけてそれと向き合っていくそういう覚悟と能力を持つべきだろう.職人は道具にそのような姿勢で向かってきた.そのように接することはできないか.

そのためには,学校でもいや幼稚園からでも,テクノロジーやそのルーツである道具と親しみ馴染み,それを「生きる力」とすることを学ぶ必要があるだろう.電気だって動力だって,どう生まれてきているのか.水の流れを川遊びで学ぶように,雲の動きを草原で寝転んで学ぶように,自然と生きた知識として産業革命以後まるで自然環境のように私たちを包囲するその力の性質を身体を通して学ぶ必要があるだろう.(こうした教育が果たしてこれまであったのだろうか)

また,その道具(とそれを使う身体)の機能の奥深さに心底「感動」する機会や,その純粋な驚きを大切にすべきだ.徐々に高度なテクノロジーとも戯れていき,そうしてそれらを自分により良く馴染む身体の一部としていきつつ,そのスケールの大きさ(ハイパーオブジェクティビティ)を知ったり,畏敬の念を持つことを覚えることも必要だろう.道具やテクノロジーはいかに小さい頃に身体化するのかが重要であり,そうした素地があれば自ずと機能的サイボーグとしてテクノロジーも身体として機能するようになる.そうすれば,そうした「拡張した」物的基盤にもマインドフルになれる.大人になってサイボーグメディテーションと言っても限界あるのだ.

また,そのテクノロジーはルーツを道具,そして身体機能に遡る.生きとし生けるものがもつ機能こそテクノロジーのルーツでもあり,また無機物の機能もまたそれを構成するもの.つまり,宇宙の森羅万象の働きが人類(サイボーグ)のあり方を構成しているので,そのためには,自然に多くふれるというか,自然の中に育つことも,その精神性の形成に不可欠だろう.

これが一つの私なりの最善手.その結果,何も変わらないかもしれない.そうだとしたら失敗だが,やるしかないと思っている.実際,まだ公にしていないが,来年からある自由な校風の小中学校の経営に関わることになっているので,前のめり気味に上記を実践したいと思っている.これを子ども向けに学校で,また大人向けには原生ジャングルでサバイバル的滞在を行うジャングルクラブを通して,まずは道具に向かう精神性などから養う場を展開しく所存だ.


次に,2つ目の答えが,これは可能性を探っている段階だが,社会全体の成熟への期待.普通に考えれば,人間の欲求がある程度満たされてきたなら,「駆り立て」の衝動は減っていく.これ以上食べたいというよりより栄養バランスを考えたいし,物質的豊かさより精神的豊かさを,というように「成熟」していくということはある.そうなるとどんなにテクノロジーが人を駆り立てようとしても,もう駆り立てられる余地がなくなるかもしれない.今,AIが人間の知的欲求を駆り立て始めている.そのうち満たされない心という駆り立ての源泉とも言える領域をAIが満たすようになるかもしれない.パートナー探しにトラウマ,コンプレックスの解消に,心の安らぎ.その駆り立てが完成したあかつきに何が起きるのか.「資本主義を終わらせる」と豪語する加速主義者たちはおそらくそういう未来を見ているのではないか.

そうなってくると,駆り立てではない側面をテクノロジーから引き出すことも可能になるだろう.テクノロジーは「複数安定性」と呼ばれる性質を持つ.これはあるテクノロジーは必ずしもひとつだけの機能を持つのではなく多重に機能を持つため,ある一つの機能が発揮されていたとしても,実際は隠された機能が必ずあるということを意味する.ゲシュテルにつなげるなら,生産性や効率性を高めるという機能以外の機能,例えばウェルビーイングのための機能をテクノロジーから本来引き出すことができるということを意味する.

しかし,そんな未来は来るのだろうか.楽観的にも悲観的にもならず,淡々とその行く末を見つめていきたい.

(画像は,先日,庭のニワトリを囲うため立てた「木枠」の扉.庭で鶏を飼うなんて素敵ですねという反応もあるかもしれないが,子どもたちに,いかにニワトリは人間の都合がいいように家畜化(道具化)され,そして,ニワトリたちからぼくらは卵を用立て,駆り立ることで,卵は食卓に並ぶのか,そのリアリティを学んでほしいから飼っている.)

*これを読んで「ゲシュテルに抵抗できないけど脱出できるとはどういうことか?」と質問を頂いているのですが,まさにそこが要です.追ってそこについても書きますので.

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