ウェルビーイングを問い直す① ウェルビーングと幸福感は関係ないでしょ

ウェルビーイングという言葉は、厄介な言葉である。ウェルビーイングと聞いて、ああ、はいはい、となる人のウェルビーイングの理解は、だいたい間違っていると思っている。これは、四年くらいかけて徐々にウェルビーイングの本質を私なりに考えていって見えてきたことと関係する。

「ウェルビーイングの理解」が間違っている。なんだかこの発言自体が、ぜんぜんウェルビーイングじゃない感じがする。けれども、そう言いたくなる感じがする。その理由は、現代において、ウェルビーイングということばに「幸福感」というニュアンスが必ず含まれるが、本来、ウェルビーイングと幸福感って全く関係ないでしょ!と思っているから。

なぜ、ウェルビーイングと幸福感は関係ないのか。幸福感を感じる薬を知らない間に飲んでいて、毎日幸せだという人がいたとして、それは僕はウェルビーイングじゃないと思うし、まったく幸福感を感じないほど、幸福かと聞かれてもわからないといいうほど、日々の暮らしの没頭して生きている人も(むしろ、そういう人こそ)ウェルビーング、つまり善き人生を歩んでいると思うからだ。つまり、ウェルビーイングは善き生、意味のある人生を意味する。ウェルビーイングの哲学では間違いなくそうだ。

なので、ウェルビーイングが幸福感をともなうものというニュアンスで語られることに異議を唱えたい。

そして結構異議を唱えてきた。学会とかゼミとかで。しかし、哲学的にはそういう考えもありますねという反応はあっても、ゼミの教授に言われたこの言葉が象徴的だけど、もはやほとんどお手上げかもしれない。「七沢さんが言っているウェルビーイングという概念と、世間のウェルビーイングの概念に乖離があって、ウェルビーイングという言葉がそういうふうにすでに広まっているんだったら、ウェルビーイングという言葉を使わないで、七沢さんが言いたいことを言ったらいいんじゃないの?」と。

しかし、それでいいのだろうか?ぜんぜん良くない気がする。だってウェルビーイングって、つまりwell-being、より良くあることは、人生をより良く生きるということは、唯一に近い人類の普遍的な意志だから。人は、ただある(being)だけではない。必ずより良くありたいと思う。その意志の意味をよく考えた方が僕はいいと思う。

ということで、ある研究会でウェルビーイングとは何か議論してきた結果をまとめたワードの内容を徐々にこのnoteにアップしていきたいと思う。


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