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腹が立ったのでとにかく文章を書いた

 他人の努力を無駄にする人が大嫌いだ。

 一昨日、大学生の弟が高熱を出した。
3日前から調子が悪そうで、その前日は友だちの家へ泊りに行っていた。
私たち家族が住んでいるのはそこそこ都会で、感染者も多い。
ニュースでは連日「県内過去最多の感染者数」だとか「緊急事態宣言の要請を検討」といったことが報道されている。
それでも彼は、のこのこと生活を共にしない者の家へ泊りに行った。

 今回だけではない。
今年に入ってからだろうか、就職活動のストレスを発散するように飲みに行く機会が増え、内定を貰うとストレスからの解放を祝うように飲みに行った。
最低でも週に2回はそうして家の外で他人の前でマスクを外す機会を持っていた彼が感染するのは、至極当然のことだ。
むしろ「自分からウイルスを貰いに行ったのか?」と聞きたくなるような行動である。
コロナウイルスというものを知らないのだろうか。
去年の冬から流行りはじめ、人々は外出の際マスクを着用し、至るところで消毒をするようになった。
飲食店を筆頭に、様々な制限が設けられた。
飲みに行っていたのだから、時短営業については知っているだろう。
就職活動のほとんどがオンラインで行われた理由も、知らずに従っていたのだろうか。
それならば仕方ない。あまりに情弱だが、まあ知らないものは仕方ない。

 「知らない」ということにしなければ気が済まない。

 私は非正規雇用ではあるが、会社に勤めている。
父親は家族を養うため、毎日働いている。
同居人の陽性が判明した場合、2週間の自宅待機を言い渡される。
私の仕事は出社しなければ意味がない業務が多いので、リモートで出来ることはほんのわずか、情報の守秘義務を考えるとほとんど無いに等しい。
今月はお盆休みもあったので、出勤日は約1週間のみ、給料も1/4だ。
父親は普段からリモートで出来る業務が多いが、それでも父が出社して、実際の商品を前に話し合いをしなければならないこともある。

 どれだけの迷惑をかけるか、なぜ想像できないのだろう。
もちろん感染対策を徹底した上で罹ってしまったのなら、私も怒ったりはしない。
だが防げることを故意に防がなかった彼が、憎くてたまらない。

 今日は楽しみにしていたオーケストラコンサートのライブ配信を観た。
有観客で行われたコンサートを、配信で観た。
それは感染のリスクを考えて、生で聴くことを諦めたからだ。
毎年開催されるアイドルのコンサートとは違い、そもそも開催されるか分からないようなコンサートだ。
2年前から待ち続け、1年ほど前に奇跡的に開催が決定したものの、事態が悪化したため半年延期。
そしてようやく開催されたコンサートを、私は諦めた。

 会いたい友だちも、行きたい場所も、たくさんある。
しかし友だちはたまに連絡こそすれ、誰一人として「会おう」とは言わなくなったし、私は1年以上、家族の誕生日以外で外食をしていない。
そうやって積み重ねてきた我慢を、滅茶苦茶にされた。
同居しているので行動を制限することも出来ただろうが、彼ももう来春には社会人になる大人だ。
お互いに干渉を嫌う姉弟であるし、「副作用が嫌だからワクチンは打たない」と言う彼を止めることは不可能だっただろう。
1年半ものあいだ散々ニュースで見てきた情報を前にしてもなお、その程度の認識なのだ。
違う違う。君は知らないんだったね。
知ってての現状なら、あまりにも無責任で楽天的だよね。

 私はある一件を境に父親と折り合いが悪く、ほとんど会話をしない。
弟ともそうなれば、家で普通に接することが出来るのは母親のみだ。
私の家庭はずっと仲が良く暖かかったのだが、どうしてこうなってしまったのだろう。

 原因は私にあるのだと思う。
10代の私はもっと寛容だったし、想像力に欠けた無責任な子どもだった。
20歳から数年間働いたバイト先の店長との出会いで、私は大きく変わった。
アルバイトであろうが、お客様にとっては関係がないこと。
誰か一人でも適当な仕事をすれば、真剣に働いている人たちの努力を無駄にしてしまうということ。
あらゆる状況を想定し、常に出来る限りの準備をしながら仕事してきた。
そうして社員の方々からの信頼も得た。
しかし店長が異動して以降、そのような努力が正当に評価される環境は珍しく有難いのだということを知った。
手を抜いて働き、問題は起きてから適当に対処することが当たり前の職場になり、常に考え責任感を大切にしてきた私は見事に浮いたのだった。

 あらゆる場面において、自分が神経質なのだと感じる。
おそらくあの店長に出会っていなければ、こうはならなかったと思う。
しかし私は店長の下で様々なことを学び、身につけたおかげで、全く違う職業に転職した今も、有難いことに高い評価を得ている。
ただ、完璧な仕事を目指すあまり、看過できないことが増えたのも事実だ。

 時々あの店長に出会わなかった場合の自分を想像してしまう。
もともと要領よく器用にこなせるタイプだったのでそこそこ仕事は出来たし、人生の分岐点においては強運を発揮してきたので、それなりの企業に就職して、割と幸せに生きていたと思う。
生きづらさを抱えることなく、今よりもっと世の中のほとんどを知らずに。
小説や映画の世界の奥深くまで入り込むことも、音楽の感情を受け取ることも、季節の移ろいを感じることもなく、無知なまま幸せに生きただろう。
どちらが良いかと考える時もあるが、出会わなかった私になることは出来ないので、いつも考えることをやめる。

 かつてその店長に「正解かどうかは分からないから、選んだ後に自分で正解にしなさい」と言われたことがある。
出会いに正解も不正解もないけれど、ものの見方はこの先の自分次第だ。

 そういえば、無責任におそらく感染した弟に腹を立てていたのだった。
怒りのあまり全然眠れない。
だからこうして文章を書き始めたのだ。
いつのまにか話が完全に逸れていた。よかった。

 防げることは、防ぎましょうね。

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