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子供たちへ、次の世代の人々へ

不可解に思うかもしれないが、自分が死んだ後の世界についてゆっくり考えることができるのはとても幸せである。

私の子供たちに、また次の世代の人たちに何かしてやれないだろうかと考えてきた。一番大切な何かを与えたいのだが、それは有限の資源であるモノやお金ではない。これまで私が生きてきた経験に基づく知恵を贈りたい。それもいつでもどこでも持ち運びができるように、一言で表現できないかとあれこれ考えてきた。

この一文を贈りたい。

小さな良い行いを積み重ねなさい。

私の真意を理解してもらうために、ここではもう少し言葉を費やしたい。

この世は因縁果の世界である。例えば、数百年前から現在についてどのような変化が歴史上に生じたのか考えてみてほしい。その変化と同じくらいのスケールで、現在から数百年後の未来でも変化するとして思考を巡らせることにより、未来がどのようになっているかある程度想像できるだろう。

ただし、より詳細で具体的な未来を予知しようとしても、「事前にほとんど予想することができず、起きたときに衝撃が大きい事象」(ブラックスワン)が現れてしまい、うまくはいかない。ここで私が言いたいことは、2600年以上前から仏教では因縁果の原理を教えているが、やはり私たちは因縁果の世界を生きており、私も40年現在を生きてきたが、やはりそう思うのである。最先端の技術や考え方が生活のインフラを根底から覆したとしても、あなたたちが過ごす未来の世界も本質的にはそれほど変わらず、やはり因縁果の世界のままだと考えられる。

現在のデータサイエンスから人工知能(Artificial Intelligence, AI)が発達し、蓄積したデータから限られた対象における未来予測が相当な精度でできるようになってきた。しかし、その中身については決して物事の原理原則に基づいて設計されている訳でなく、ブラックボックスな統計モデルが(2023年現在では少なくとも)主流である。またデータで網羅されていない範囲の対象の未来は予測できないという外挿の問題も立ちはだかる。そのため、現在のAI研究の柱は、因果推論ないし因果探索により物事の道理をデータから導き出そうとしており、実際2021年のノーベル経済学賞は因果推論についての研究に対して受賞されている。

因縁果の因が直接要因で、縁が間接要因で、果が物事の結果である。しかし、どれだけ人類が知恵を蓄えて未来予測に挑んだとしても、自然は複雑であり、未観測な要因が多く、どこまで行っても完全な未来予測はできないかもしれない。皮肉なことに、私は研究者人生をかけて未来予測のシステムを開発しているのだが(もちろん、このシステムによって人類が抱えるいくつかの社会課題の解決に貢献できると信じているのだが)、厳密な意味で、未来予測の完成は存在しえないとも考えているのである。

人間万事塞翁が馬 - 古くからこの世は無常であると言われるように、「変化すること」が基本である。とはいえ、この世は完全にランダムな世界でもない。カオス理論で示されるような、初期値のわずかな違いが結果に大きく影響を及ぼす現象だったとしても、未来の複数のシナリオを確率論的に予測して、なるべく望むシナリオになるように初期値に介入することも現代では原理的に可能である。

すなわち、この世は完全に予測可能でもなく、また手の施しようがないほど完全に予測不可能な世界でもない。ちょうどその間に位置する、不明瞭な因縁果の世界だと言えるのである。

そのような不明瞭な因縁果の世界において、少しでも良い結果につながるような行いを続けることが一人一人の処世術として重要であると言いたい。また別の言葉で言えば、ブラックスワンが生じるほど不確定な要素もあるがゆえに、チャンスにはなるべく積極的な姿勢をとり、リスクには備えるといったバーベル戦略が有効だとする考えと相矛盾しないのである。

小さいことの積み重ねが大きな変化を生むことについて、稚拙な事例かもしれないが、私の自身の分かりやすい体験で伝えてみたい。私は日々の小さな習慣により、肥満、睡眠時無呼吸症候群、アレルギー性鼻炎の症状を克服できた。具体的には、30代になって身体の代謝が落ちたころ、これらの症状が酷くなった。評判が良い病院に行ったり、ネット上にある良いと言われることを雑多に試すなかで、最終的に自身の日常を変えること、地道な努力をしてみることを実践した。食事の量と質の調整、日々の筋力トレーニング、プロバイオティクスとプレバイオテティクスの実践により、症状の改善を実感し、検査の数値からも分かるような結果がでた。

また博士課程進学の時に、散々な成績で入学したにもかかわらず、毎日論文を読み込んで、研究に没頭することを愚直に繰り返した。最終的に、奨学金の返済免除になるくらいの成績で博士号を取得することができ、当時最も行きたかったアメリカの研究室に行くことができた。またアメリカに行った後でも研究を続けるためのフェローシップ(奨学金)やグラント(研究費)の獲得には多くの苦労をした。それでも諦めずに何度も挑戦して、寝る間も惜しんで勉強と研究を繰り返し、自分のプライドを捨てて周りの成功者に頭を下げて教え乞い続けた。今では自分の夢を追い続けられる環境で研究を続けることができてきている。

これらの結果は、縁に相当する周囲の影響が大きいものの、自分で唯一操作できる自身の行動を少しでも良い方向になるような行動を毎日積み重ねたという因がなければ達成し得なかったと考えている。日々の小さな積み重ねはすぐには結果として現れないものの、最終的に必ず結果に結びつくものであると自身の経験から考えるようになったのである。

それでは、良い行いとは何であろうか?これはとても難しい問いであり、その場その場の状況によって様々な形をとりうると考えられる。先に示した私の経験のように具体的な行動が分かりやすい場合は迷うことは少ないだろうが、ここではなるべく誰でも何処でも何時でも通用するような普遍的な良い行いはあるのか考えてみたい。

そして40歳になった私がたどり着いた一つの解がある。

周りに親切にしなさい。

科学では利他的行動と言われ、仏教では布施と言われている行動である。いや、行動だけでなく、その根本にあるのは行動に表れる以前の「心」である。心の変化は身体に反映し、身体の変化は行動へ反映される。逆に悪い心は悪い行動につながるので、くれぐれも注意してほしい。

自分の行動は意識で制御できていると考える方は多くいると思うが、必ずしもそうでもない。無意識下の心で思っていることが身体に現れる変化があり、その身体的変化が行動にまで影響するのである。科学者なのに非科学的な考え方をすると思われるかもしれないが、科学で説明できる世界に限りがあることを知っているからこそ、心で念ずることの影響の大きさを日々実感するのである。

しかしながら、この世には恐ろしい事件が起きたりする。そのため、周囲には悪い人が多く、誰にでも親切にすることなんて到底できないと思う方もいるかもしれない。果たしてそうだろうか?恐ろしい事件とは、完全に悪い人物が完全に悪い行動によって起こしているのだろうか?むしろ、極悪人と言われる人物は自分自身を極悪人と自覚しているわけではなく、そこにはその方にとっての正義があり、真っ直ぐで誠実な心があるとも考えられないだろうか?

もちろん凶悪な犯罪を擁護する訳でなく、そのような犯罪を犯した人はその時代の法によって適切に罰せられるべきである。ただ私がここで言いたいことは、日々の悪い習慣と周囲の悪い環境により、どうしてもその悪い結果を避けられずに表出してしまっているという因縁果の道理があり、その方の意思を大きく超えた力学によって凶悪な犯罪が生じているという考えである。

歴史上で究極的な悪といえば、国と国の戦争だろう。その悲惨さはここで述べる必要もない。ただそのような悲惨な戦場であっても、人類は他者への親切を失わないでいる事例が数多く存在しているのだ。ここでの議論は非常にナイーブで、誤解を生みやすいため、踏み込んだ内容については、Humankind (ルトガー・ブレグマン著)を是非読んでもらいたい。長い進化の歴史の中で、どういった特徴が人類の生存に寄与したか。この本には性善説の進化的根拠が豊富な事例とともに書かれており、ここでの議論は十分に考慮すべき内容だと考えている。

またその議論の成否にかかわらず、性善説に基づいて人々を眺めてみてほしい。職場で会う人、お店で会う人、街ですれ違う人、どんな方にも、「あなたと同じように」正しくありたいという正義があり、精一杯生きていることを想像してほしい。また社会は多くの人々の助け合いで成り立っていることに想いを馳せてほしい。このような性善説を一旦受け入れて周りを眺めてみると、この世はなんて幸せに満ち溢れているか実感できるだろう。

ここで私が言う「幸せ」は、ひょっとすると多くの方が日常的に捉えている幸せと異なるかもしれない。あなたにとっての幸せとは何であろうか。今の世界で言われている幸せ、例えばお金、名誉、健康、美容など、これらはどれも相対的な評価に基づいた幸せである。他人や過去などと比較して判断する幸せである。そのような幸せが本当の幸せだろうか?あなたが追求したい幸せなのだろうか?もし自分の内なる感情のみが感受できる絶対的な幸せを幸せと定義することができれば、その幸せはどんな人やどんなものにも脅かされない。私はそのような絶対的な幸せが本当の意味での幸せなのではないかと考えている。

そして、この絶対的な幸せの鍵が「親切」にあり、他者の幸福を思うことを行動原理の主軸に据えてみることで実現できるのだと考えている。もしあなたが人生で選択に迷う瞬間があれば、自身でなく、他者への親切を優先し、そこに情熱を注げば良い。独りよがりの親切では逆効果である。その他者が何を求めているか全身全霊で捉えて、その求めていることに手を差し伸べるのである。心で思うだけでも良い。あとは良い結果がついてくる。すぐでは無いかもしれないが、必ず因縁果の原理であなたに良い結果、絶対的な幸せが生じる。たとえどんな状況だったとしても、この世の原理原則により、あなたの行いは必ず報われると私は強く信じている。

あなたの幸せを願って、「小さな良い行いを積み重ねなさい」。この一文を贈りたい。



まだあなたの時間が許せば、自分と他者(それは人間だけとは限らない)との関係性について、もう少し言葉を加えたい。

他者に親切にすることが、行動原理の基軸となってほしいと伝えたが、他者が人間だけではなく、自分と自分の周りにいる他の生物にも思いを馳せてみてほしい。彼らがなぜそこにいるのか、ひょっとすると、私たちの身に降りかかる病気や何らかしらの健康的な障害は、人間以外の生物たちとの関係性の悪化によって引き起こされていると科学は教えてくれる。

こんな考え方は、一昔前まではオカルトで非科学的だと一蹴されていたが、現在の科学では自身の細胞レベルでの自他認識機構が宿主(人間)に及ぼす影響の大きさについて再認識され、いくつかの科学的エビデンスが蓄積され始めている。そのため、過去に信じられていたような、「私たちは、私たち人間の細胞だけで構成されている、その細胞のみを理解すれば良く、その細胞のみを良くすれば良い」という考え方は、現在ではむしろ全く科学的な考えではないのである。

上述したことだが、私がアレルギー性鼻炎を克服できたのも、腸内細菌の改善が関係しているようである。プロバイオティクスやプレバイオテクスを毎日摂るようになって半年間過ぎた頃に、花粉症の季節である春先を迎え、家族の中で私1人が花粉症の症状に悩まされず(昨年は花粉症の症状が出ていたにもかかわらず)、今年は全く症状が現れていない。もちろん、これは単なる偶然の可能性もあるが、昨今の腸内細菌の研究から、腸内細菌の多様性(特に酪酸や酢酸などの短鎖脂肪酸を生成する微生物の多さ)が免疫機能に関与すること、ひいては、神経系にも作用を及ぼすことが示されている。

科学的なエビデンスは研究論文を参照すれば良いのだが、ここで私が言いたいのは、自分と自分の周りの生物に対して、その関係性をなるべく自然に沿った形に整えるということの重要性である。その自然というのは、これまで進化的な時間スケールにおいて自己と他者の関係性が厳密に選び抜かれて洗練されている事実であり、この事実に思考が及ぶかどうかが問題であると私は思うのである。

自分とそれ以外の他者について関係性をなるべく良くしようと努めること(このことが先の行動原理で述べた通りで、他者に親切にすることは、因縁果の関係により、自分自身に良い結果をもたらすということ)を、自身の目に見えているもの以外についても、科学的な目を通せば、肉眼では見えない多くの他者との関係性が存在することに想像力を広げることができるのかという視点を伝えたいのである。さらにはその見えない相手との関係性を良くするために、自分自身の思考の鍛錬が必要であり、例えば、仏教のような宗教と呼ばれる自分自身の思想に対する深い考察があるということ、加えて、現在ビジネス書にありような対人関係でいくつかの処世術とされているその時代ごとに存在する具体的なノウハウが身に付いていること、少なくとも、そういった事柄に興味を持つこと、が重要にあると私は考えている。

あなたがこの文章を読んでいる時、世の中はどういうような状況なのか、今の私にはわからない。ただいかなる劣悪な状況であったとしても、上記に示すような事柄に基づいて自身の世界を形成することができ、そのような世界の住民として過ごすことができれば、幸せになることは可能であると考えている。

2022年に私たち家族全員はCOVID-19 に感染され非常に辛い日々を過ごした時でも、私はとても幸せだった。もちろん、症状は辛いし、突然の感染のため準備ができずに生活の状況はとても酷かったのだが、ひとつ屋根の下、家族が支えあって、その支えについて何ら疑うこともなく、自分と家族の一人一人がそれぞれに対して親切を図ることができる時間を過ごすことができた。このような視点から見れば、実体が人間の肉眼では見えず世界中を震撼させる史上最悪な感染症でさえも、捉え方によっては良くも悪くもなるのである。私たちが目の前にある事実、特に良くない事実を受け入れ、どのような捉え方をするかで、あなたの世界は変わる。

以上になります。


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