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新たなるシャドウ(ネタかぶり)

気づいてしまったんです。わたしにいる、とんでもなく大きなシャドウ。

正直、文章を書いていても、絶対に一字一句同じ文章は書けませんので、気づいていませんでした。

しかし、作品製作の時には常につきまとい、わたしを苦しめていたシャドウ。ついに、その名前を視ました。。

ネタかぶり。
わたし先日書いた記事に、ネタで作った作品は売れないと書いていたのですが、そもそも、ネタで作ること自体に苦しんでいたのです。

たとえば、服を気に入って買ったとして、同じ服を着てる人とすれ違ったら、イヤですよね。旦那なんて同じ服持ってた会社の人に、捨てろって言われたことがあるらしい。
でも、一般的にはネタが被っても、それほどは気にしません。

しかし、わたしは異常なほど、ネタ被りが嫌いだったのです。。

同じ服と同じくらい、イヤだった。

ほんと、他の人から見ればなぜ?と思うほど。
そのために、ツイッターなどで「ハッシュタグ祭り」が行われたりするたび、頭を抱えたり、コンテストでのお題出しに数か月悩み、製作が間に合わない遅刻案件を出したり、製作した作品のネタがかぶった時に「うわ~~」と頭を抱えて苦しんだ。

いつも製作する時は、自然と出来ることが、ネタになると全くできなくなってしまうのは、ネタかぶりを異常なまでに恐れていたからでした。。

理由は、なんとなくわかりました。
10代の頃投稿していた人達の間で、オリジナルイラストについてやり取りをしていたことがあって、まだ二次創作なんて言葉すらない時代でしたが、すでにコミケには二次創作がありました。
「オリジナルとは」について、雑誌などでも注意書きで「オリジナルであること」をしつこく書かれていました。二次創作すらダメと言われていた時代でしたね。ファンアートが赦されていたのは、アニメ雑誌くらいかなあ。

なので、とにかく誰にも似ていない、に気をつけるようになり、その先は「似ているべきでない」になってしまいました。
その延長上に、「ネタも似ているべきでない」になってしまったと思われます。まったく、今の時代では意味のない正義に苦しんでいました。

イラストでも、人形でも似ていたとして、画像で完全一致になることはありません。
最初からオリジナルで偶然似てしまうことは、企業ですら起きることです。
オリジナルという言葉の呪縛に、その後を奪われてしまうとは、、

ネタが被ったとして、そもそも著作権放棄しろと言っているツイッターに載せても誰にも迷惑はかからない。わたしが自分で創作したものしか出していないし、材料に著作権があるもの(マリメッコやキャラクタープリントなど、あるっちゃあります)を使っていなければ問題はない。
たとえネタから発想したものが被ったとして、全く同じ作品にはなりません。

ネタって大半が名詞なうえ、目的もたくさんの人が参加してもらったり、交流だったりするので、被ってもむしろ交流が出来るのでは。。

別にコンテスト一位じゃなきゃダメとか、思ってなかった筈なのに。
どうしてこうなったんだろう。

そもそも、これはSNSへの考え自体にも通じることで、丸パクリしてダメなのは、たとえば作品を販売するとき。

作家ってある程度売れると、ほとんどの方が丸パクリされるらしいですね。わたしは経験がないんですが(売れっ子じゃないってことだね。。)
でも、見せるだけなら、全然問題ないし、レシピを売っている作家さんなら普通にうれしいことです。

SNSを単なる交流の場、として考えられなくなったのは、ショップ販売者としてのSNSアカウントがなかったから。販売者としてなら、法人Facebook垢をショップ用Instagram垢と連携して、ショップ販売ページにリンクして、宣伝モードで発信すれば良かったわけで、同じアカウントだったから無理があったわけです。多分その頃、住所電話公開が条件だったからだろうな。。

TwitterもInstagramも、個人アカウントだったので、ショップ販売をした辺りから人が遠ざかっていくのがわかりました。初期の方が売れていたから良くなかったかも。。

そして、SNS集客がうまくいった人達が作ったルールをお披露目するたびに、どんどん自信がなくなって、SNSから遠ざかるようになってしまいました。

うまくいかなくなると、ひとはその「理由」を無意識に探すのだそう。
そして、たぶん苦手意識になっていた「ネタかぶり」を知らないうちに、ひもづけてしまっていたのだろう。。

そうやって、何もかもつまづきはじめて、1年くらい過ぎて傷だらけになってしまい、何が間違ってるのかもわからなくなってしまっていました。

これがリアル店舗だったら「お店の顔」として平然とやっていた可能性は高い。わたしはリアルでは、いまも陽キャのままです。

残念なことに、病気でいまだに一般の外で働く仕事は出来そうにない。
でも、「ショップとプライベートの切り替え」というやり方でオンラインショップを運営していなかったので、結局行き詰ってしまった。

先日の記事では、他にも気づきがありました。たとえば、優良客をファン化するために、本当に好きないきものを、もっとピックアップして、極端な話それしか作らない、くらい言い切ること。
わたしは何でも作っていますが、本当に好きないきものは虫と鳥と爬虫類、魚類、クモ、節足動物やかたつむりなど。でも実はほとんどそれを作っていないのです。売れないとでも思っていたのでしょうか。いや、今はニッチな方が確実にファンがいます。

それに気づいたのも、今回の件だったり、「アートを仕事にするのに向いている方は」というメルマガが届けられて、即答出来た自分に気づいたことだったり。

アートは、描いた人、見る人、アート、全てを「在る」にかえてくれる。

存在してもいい。すべてを肯定するもの。

仕事だと、売れない=ダメと決めつけがちですが、アートは肯定するものです。わたしの作っているものは、仕事であり、アートなので、否定しちゃダメだった。

たとえ、変だと思われても、わたしが好きなものは、在るんです。
それを作らないで、誰かが好きだと言ったものばかり作り続けると、結局誰も喜ばない作品になってしまうんだな。。

やってみないとわからないことって、あるんだな。

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