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観念からの、在る、が見えた

もう追い込みの時期なのですが、一方で瞑想への探求、メンタルと栄養という興味も尽きることがない。

瞑想中、息の音に集中すると、パニック障害持ちには苦しかった発作のイメージがどうしても思い起こされ、ざわつきます。
身体が空中に舞い、砂埃にまみれて息が出来なくなる(想像)こともある。
瞑想誘導という動画で、リラックスどころか、動悸がしたりして、とても瞑想の状態になれなかったのですが、調べてみると、そういう体験談が山ほど出てくる。
ある人は瞑想をやめるといいと言い、ある人は「観念にとらわれている」と表現する。

ー産まれてきた時に、そんなものはほとんど持っていなかったし、自由と使命感で動いていた。しかし、わたしを意のままにしたいと思う人たちを周囲に配置してしまったため、意のままにならないわたしに、下品な言葉で蔑んだり、直接「あなたはこういう人」とジャッジされたりして、この20年くらい苦しんで、去年くらいに極限に達し、苦しみを綴るようになりました。

少なくとも、わたしがその通りになったとしても、その人たちは満足などしないだろう。その人たちが関心があるのは、自分のポジションだけだ。

わたしは中心から出るメッセージを形にしたいだけだ。地球のポジションには興味はない。なので、その人たちが願っていることにも興味がない。

しかし、この活動をしたいと口にしても、実際さえぎったり邪魔をしたり、別の活動に誘ったり、、わたしが別の活動をして出来なくて、優越感にひたりたいだけなのでは?

まあ、そういう事をしないと生きていけない人がいるのは間違いなくて、しかも「わたしの行く手を遮ったこと」はなんの罪にもならない。
そういう人には縁がないよう、頑張りましたけど、とにかく多いんですよね。。

というか、わたしのように、内なるパワーを形にしたいと3,4歳の頃から考えている人の方が珍しいみたいで。。

なんだかんだ、ありましたけど、とうとう見つけました。

アドラー、ユングのような精神医学、宗教の悟りを超えた「なにか」です。
中心はわたし。外のものは、見えているだけ。。
探求しても、悟っても、見えてこないもの。
この状態に持ちこまれてしまえば、苦しんでいるものはひれ伏すしかないのです。

つまり、苦しんでいるということは、ここにたどり着けておらず、頭の中にこびりついた「観念」というフィルターを通して見たことに苦しめられている。
観念のフィルターを通して見えたものは、わたし以外には見えないので、他の人には見えない、他の人にはわからない。
だから、いくら苦しいといっても、同じフィルターを持っているわけではないので、言葉にしても伝わらない。

ー4歳の頃には、そんなことは考えてもいなかっただろう?イメージを伝えたい、としか考えていなかっただろう。

わたしは子供の頃から「~しなさい」と言われるのがきらいで、全くいうことを聞いていませんでした。まあ、実家の人たちはかなりの自由人だったので、あまり~しなさいって言う方じゃなかったけど。

嫁という言葉にこびりついている、他人の観念は大嫌いでしたが、逃げきれませんでした。

仕事場も比較的自由な所が多かったので、嫁という立場以外では、ほとんど苦しんでいなかったと思います。

というわけで、「わかってほしい」という観念を、最近心の中から葬りました。

「在る」だけを見つめていたはずなのに、出来なくなった。
でも、事実やそれに伴って起こったメンタル崩壊を、まとめて葬るには、かなり時間がかかりましたよ。。

とにかく、葬らないと、わたしの光のワークが出来ない。ということだけは、確かだったのです。
人生の使命に沿って生きていくために、必要な手続きだったのです。

頭の中だけで葬ったので、見た目には全く変わっていない。
なにも書類上は変わっておりません。
が、光を遮る観念は、捨てました。

たまに「子供の頃から苦しかった人」が「共感した」って来るのですが、それは間違いです。申し訳ない。

うちの父母は、恥ずかしいくらいラブラブでしたからねぇ。。

祖父母はちょっと厳しめでしたけど、そこまで押し通す人ではありませんでした。そりゃ叔父たちを見ていれば、諦めてるのわかりますって。。

自己実現のためなら、必要ない観念はまとめて適時捨てないと。
っていうのを、色々辿ってようやくわかったんです。

最近も、「強迫神経症」のような症状が出ているため、観念の中にネガティブなものがついているのは間違いないです。なので捨てると同時に、暴露もしました。いやだといいながら、やるということです。結構危険なので、お医者さんの許可を得て取り組んでいます。

このnoteも、暴露療法みたいなものかもね。。

言ってはいけない言葉、人々から好かれるor好かれない言葉はあれど、何を書いても自由だ。しかし、一定数読んでもらうためには、自分の世界ばかり書いているわけにはいかない。

そこで、本来のわたしよりやや心理系寄りにしている、ということです。
それなのに、「真理」に近づいている。

「在る」は自己実現ではないです。自己実現は、目標を掲げ達成していくもの。
在るはすでに完全になっているので、渇望はしていない。

わたしのやりたい事と世間が求めていることが違うことを知っているから、地球の人々は常に変化し続けていることを知っている。
しかし、本当の「完全」は「在る」だったー

熟考するといい。そのうち、わかる、のだそうだ。。

わたしも、探求途中ではなく、「完全」な作品を作りたい。
何故なら、完全でないと、愛あふれる作品にならないのだ。

見る人は、そこはきちんと見分けることが出来ます。

欠けた作品は、さらに欠けたものを呼ぶのです。それが観念というネガティブな箱に入ってゆく。いわゆる、黒歴史ですね。。

別に黒歴史でも構わないので、未完成でも世は歓迎してくれますけど。でもね、トラブルが多いんですわ。

ああ、やっとわかった。これが、プロフェッショナルとアマチュアの差だろう。。この差が、大きいんですよね。思ったよりも。

また、マインドセット出来た。
こうやって、「在る」に少しでも近づきたい。

もうひとつの、栄養の本は実際に食べてみないと書けないので、少し後にします。

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