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山本宣治と宮沢賢治

私は大学時代にお二人に関するいくつかの著作を読みました。お二人は全く違う地域で違う生い立ちをもって育った方々ですが、どこか共通するような生き方、市民や農民のために生きる生き方に私は共感を覚え、とても尊敬しています。

山本宣治さんは1889年 (明治22年)に京都で生まれ、衆議院議員であった1929年(昭和4年)に亡くなりました。治安維持法改正に反対していた宣治さんは右翼団体のメンバーに刺殺されました。

宮沢賢治さんは宣治さんより7年後の1896年 (明治29年) に岩手県花巻で生まれ、宣治さんが亡くなった4年後の1933年 (昭和8年) に亡くなりました。

ほぼ同時代に違う地域で生きたお二人です。しかし、私はお二人にはなにか共通するところがあり、もしお二人に交流があったらどんな会話をされていたのだろうかと、なぜか想像してしまいます。

宣治さんのご両親は熱心なキリスト教徒だったそうです。一方で、賢治さんの父親は花巻仏教会の中枢会員として毎年仏教講習会を開いたりするほどの熱心な信者であったようです。私の勝手な想像ですが、お二人に共通すると思われる人道主義的な生き方や考え方は、ご両親の影響も少なからずあったのではないかと思います。

育った環境は違うお二人ですが、お二人は生物学 (宣治)や農芸化学 (賢治) という科学の視点で、市民や農民の暮らしの向上に尽力することになります。

宣治さんは東京帝国大学理学部動物学科で生物学を学び、さらに京都帝国大学大学院に入学して染色体の研究などを行っています。その後は同志社大学や京都帝国大学などで講師を務め、労働学校などでも性教育や産児制限などの啓蒙運動に携わっています。優生学に反対し、貧困問題や男女差別の問題なども念頭に、人権擁護の立場と科学的な根拠に基づいた啓蒙活動に取り組んでいました。

賢治さんは盛岡高等農林学校 (現・岩手大学農学部) で農芸化学や土壌学などを学び、一度は上京したものの花巻に戻り、稗貫郡立稗貫農学校(翌年に岩手県立花巻農学校へ改称)の教諭となっています。花巻農学校を退職された後は「羅須地人協会」を組織して、農業や肥料の講習会を開いたり相談を受けたりしています。賢治さんが残したたくさんの文芸作品の中に農民のことを想う優しい気持ちが感じられますが、実際に科学的な知識を活かして農民のために尽力されました。

宣治さんは1926年労働農民党 (労農党) 京滋支部に参加し、1927年には労農党京都府連合会委員長に就任しています。1928年の第1回普通選挙 (第16回衆議院議員総選挙) に京都2区から立候補して当選しました。帝国議会では治安維持法改正に反対するなどしたことから、警察からの干渉や右翼団体から目を付けられていたとのことです。宣治さんの演説での一節と言われる「山宣独り孤塁を守る。だが僕は淋しくない、背後には多くの大衆が支持しているから」はあまりにも有名です。

賢治さんの労農党とのかかわりはあまり詳しくわかりませんが、花巻における労農党支部(稗和支部)の成立から解散時まで関わっていたとのことです (「宮沢賢治と社会主義運動-「労農党」を中心に-」坂井 健著 (https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/KG/0007/KG00070R178.pdf)。羅須地人協会の成立は1926年 (大正十五年)で、活動の停止が1928年(昭和三年三月)です。1927年には羅須地人協会の活動が社会主義教育と疑われ、花巻警察の聴取を受けたこともあるそうです。まさに、宣治さんが議会で活動し警察や右翼団体から厳しい圧力を受けていた時期と一致するのが、お二人の活動と、世の中の流れを反映しているようで胸が痛くなります。

お二人は違う地域、違う環境で育ちながらも、科学を学び、市民や農民のためにその知識を活かされ実際に活動してこられました。当時の世相を考えると厳しい状況での活動であったことが想像できます。

だからこそ私は当時二人が実際に出合っていたらどんな会話をかわしていたのだろうと想像してしまうのです。そして今の世の中にどのような感想を持つのだろうと。

お二人の経歴など、上記ウィキペディアを参考にさせていただきました。

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