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山中地溝帯 (さんちゅうちこうたい)の恐竜の足跡

房総半島から、関東山地、赤石山脈、紀伊山地、四国山地、九州山地を経て沖縄本島まで帯状に分布する主にジュラ紀の地層からなる地質構造帯を秩父帯と呼んでいます。

これらのジュラ紀の地層は、海洋プレートに乗って運ばれてきて、海洋プレートが大陸地殻の下に潜り込む際に、大陸縁辺に位置する現在の日本付近に押し付けられて、はぎとられて付加した「付加体」と説明されています。

ジオパーク秩父ホームページ 「日本地質学発祥の地」より

埼玉県の秩父盆地を大きく取り囲むように分布するこの秩父帯の山々の合間には、細長く伸びる帯状の凹地があります。

秩父盆地の北西、秩父郡小鹿野町飯田付近から西北西に向けて群馬県多野郡神流町、上野村、長野県南佐久郡佐久穂町大日向付近までの長さ約40km、幅2~6kmほどの細長い地溝状の凹地で、ここには白亜紀の地層 (白亜系) が断続的に分布しています。

これを地質学者・原田豊吉さんが1890年(明治23年)、「山中地溝帯」と名付けました。

山中地溝帯の白亜系には見どころが沢山あります。私も大学生の時の学年の大巡検でこの山中地溝帯を訪ねました。

訪れたのは、主に群馬県神流町です。

神流川の支流である間物沢沿いの瀬林と呼ばれるところでは、現在はかなりの傾斜で傾いた地層の表面に、「漣痕 (れんこん、ripple mark: リップルマーク)」と呼ばれる浅い水深で流水によって作られたと考えられる波状の周期的な凹凸模様が見られます。漣痕を注意深く観察すると、堆積時の流向や流れの強さも推測することができます。

「瀬林の漣痕」は通称「漣岩 (さざなみいわ)」とも呼ばれています。この「瀬林の漣痕」でさらに当時話題になっていたのはその漣痕と一緒に見つかった漣痕とは別のくぼみです。

1981年には神流町内で恐竜 (オルニトミモサウルス類と見られる胸胴椎(腰のあたりの背骨)の化石) が発見されて、「山中竜 (サンチュウリュウ)」と名付けられていました。

「瀬林の漣痕」を残す地層が堆積したのは、まさに恐竜の栄えていた白亜紀です。しかもこの地層が堆積したのは波の跡が残るほどの浅い堆積環境です。漣痕と一緒に見つかったこのくぼみは、恐竜の足跡ではないかと当時から話題になっていました。観察した私たちも、半信半疑ながらも恐竜がのしっのしっとここを歩いていた姿を想像してワクワクしたものです。

この「瀬林の漣痕」とともに残る謎のくぼみは、私たちの巡検のすぐ後、1985年4月3日に日本で初めての恐竜の足跡化石と認定されました。

そして、1987年には中里村 (現在の神流町) に恐竜センターが開館しました。

私は恐竜の専門家でも、恐竜に詳しいわけでもありませんが、「恐竜」と聞くとやっぱりワクワクします。ロマンが掻き立てられます。そしていつか、埼玉県側でも恐竜の化石が発見されないかなと、埼玉ファンの私はひそかに期待しています。

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